第1話:栄光は誰のために

本名は島田巧(しまだたくみ)という。

だが、塾の関係者や教え子、保護者たちは誰もそうは呼ばなかった。

彼を知る者は、畏れと困惑、そしてある者は尊敬の念を込めてこう呼ぶ。

「塾長」と。

東京・山手線沿線の某所。
川沿いに建てられた灰色の6階建てビル。

カーテンは常に閉ざされている。
応接セットの革張りソファは、いつ誰が座るのか不明のまま埃をかぶっていた。

ここが「塾長室」。
中堅予備校「関東学力増進機構」、通称「カンゾウ」の心臓部である。

代表取締役であり塾長である島田タクミは、その中心にどっかりと腰を据えていた。

身長180センチ以上の大柄な体にラガーシャツ。
襟の隙間からはゴールドのネックレスが輝く。

年齢の割に不自然なほどに黒く染めた髪、
そしてやたらと響く大きな声。
威圧感と軽薄さが同居するその姿は、一度見たら誰もが忘れない。

「カンゾウは今、生徒200人以上。中堅どころの塾としては上出来よ。だろ?」

誰に話すでもなく、タクミは窓の外を眺めながら言う。

少子化の影響で、多くの塾・予備校が廃業や吸収合併に追い込まれている中で、この生徒数は異例といってよかった。

「カンゾウ」の強さ──それは、時代錯誤の電話営業にあった。

「ネット?SNS?甘ぇ甘ぇ。結局、人は“声”で動くんだよ」

タクミは口癖のようにそう言っていた。

「カンゾウ」では、専属の電話営業部隊が、都内の家庭に片っ端から電話をかけていた。

この電話営業部隊は「関東上陸部隊」と呼ばれている。

「大学受験はどちらに?」

「国立志望ですか、私立ですか?」

「医学部受験も対応してますよ」

「関東上陸部隊」の営業スタッフは1日数百件、週に数千件の営業電話をかけ続ける。

断られることの方が多い。

「なぜうちの番号を知っている!」
「この電話番号はどこで知ったんだ!」

時には、電話の向こうからこう凄まれることもある。

正直、一日中こんなことを続けていれば並の神経の持ち主ならメンタルがやられる。

しかし、文句を言う者はいなかった。
入塾させれば、かなりの報酬を手にすることが出来るからである。
かつては、月に300万を超える収入を得ている「猛者」もいた。

だから「関東上陸部隊」の営業スタッフたちは、ヘコたれることなく、日々、黙々と電話をかけ続けているのだ。

この電話番号の名簿を手に入れてくるのが、教育業界のブローカー、そして名簿屋のゴンドウである。

「島田塾長、今週は都立A高の名簿、900件ほど入りました。…例の筋から」

「ほう、さすがゴンドウだな。鼻が利く。…で、いくらだ?」

「いえいえ、いつもの価格で。お得意様ですから…ふふ」

背は低く、髪は薄く、人懐っこくて卑屈な笑顔がデフォルトのゴンドウ。

「教育ブローカー」と呼ばれてはいるが、別に裏社会のフィクサーでも何でもない。
せせこましく、ケチで、抜け目がなく、マメな小悪党である。

だが、その動きの細かさこそが、タクミにとっては重宝だった。

こうして手に入れた名簿をもとに、電話をかけ続けるカンゾウの営業部。

SNS広告やSEO対策を講じてホームページの上位表示に金をかける大手よりも、はるかに安く、確実に生徒を集めていた。

「俺が考えたんじゃねぇよ。昔の塾がやってたことを、今もやってるだけだ。でもな、今やってんの、うちぐらいだろ。だから勝てるんだよ」

タクミはそう言って、自らの戦略眼を誇示した。

午後3時──受験生たちの休憩時間。
廊下には静けさが満ちていた。

そこへ制服姿の女子高生が、ためらいがちに塾長室の扉をノックした。

「失礼します。質問、いいですか?」

「おう。入れ!」

タクミはニヤリと笑い、煙草の火を消す。

この場所、この時間。
自分の支配下にあると感じる、この瞬間が、彼にとって何よりも快感だった。

全てが自分の思い通りに動いている──。
そう信じて疑わなかったあの頃。

虚像の「帝国」は、まだ壊れかけてもいなかった。

第2話へつづく