風が冷たい。
夜明け前の大阪駅前で、島田巧(しまだたくみ)は、黒ずんだ革靴のかかとを引きずるように歩いていた。
靴底には、ガムテープ。
何度も貼り直しているため、すでに輪郭がボソボソにほつれている。
ズボンの膝も薄くなりすぎて、よく見れば地肌が透けている。
だが、替えのズボンなど持っていない。
裏からガムテープを当てて、それで「行く」しかない。
誰が見ても貧乏。
だが、本人だけは“野望に燃えているつもり”だった。
──金さえあれば、女にも勝てる。
そう思うことにした。
それしか、思えるものがなかった。
大学3年の冬。
四国のある大学に在籍していたタクミは、生まれて初めて、女に告白をした。
相手は学部の一年下の女子。
一度だけ、帰り道が一緒になり、思い切って声をかけた。
その笑顔が忘れられなかった。
数日後、思い切って彼女を呼び出した。
道の駅のベンチで、手紙を差し出し、告白した。
「……ごめんなさい」
その一言だけだった。
彼女は何も言っていない。
けれど、タクミは勝手にそう解釈した。
(オレが貧乏だから、フラれたんや……)
彼女が身につけていた服は、たしかにブランド物だった。
化粧も洗練されていた。
小綺麗で、育ちも良さそうで、正直、分不相応だった。
だが、それでも……。
(金さえあれば……!)
大学を中退した。
親には「起業する」と嘯き、半ば勘当された。
目指したのは大阪。
でっかい街。でっかい金が動く街。
「金と女や。オレはそっち側に行くんや」
誰にともなく、そうつぶやいていた。
最初に就いた仕事は、家庭用の浄水器販売だった。
もちろん、電話営業なんて甘いものではない。
地図を片手に、ピンポン・ピンポンと玄関ベルを鳴らしまくる“飛び込み”営業。
「奥さん、最近の水道水、不安じゃないですか?」
「トリハロメタン──聞いたことありますよね?」
「うちは“よどんでる淀川”を浄化する力、持ってますから!!」
そんなセリフを毎日繰り返していた。
昼も夜も、インターホン越しに「結構です」と冷たく切られる。
ときには怒鳴られ、門前払いされる。
食費が尽きた夜、タクミは、公園のベンチで寝るしかなかった。
冬の夜風が、薄いスーツの隙間から吹き込んでくる。
──金があれば、温かい部屋で寝られるのに。
──金があれば、女だって笑ってくれるのに。
ズボンの股が破けた。
買い替えなどできない。
文房具店で買ったガムテープを裏から当て、それでまた、次の朝もインターホンを鳴らし続けた。
ある夜。
結果ゼロの一日を終えて、とぼとぼ歩いていたときだった。
「あんちゃん、ちょっとええか?」
商店街の明かりの下、派手なネクタイの初老の男が声をかけてきた。
見るからに「中小企業の怪しい社長」の風体。
「あんちゃん、今、なに売ってんのや?」
「……浄水器、ですけど」
男はニヤッと笑った。
「はは、時代ちゃうな。これからはな、教材やで」
「教材?」
「せや。今の親御さんは、“教育”って言葉に弱いんや。」
「教育、にですか?」
「そや。浄水器?それは水やろ? でも、教材は“将来”や。“大学合格”や。夢があるんや」
タクミは黙っていた。
ただ、心の奥で“金の匂い”を感じていた。
「名簿はある。電話営業や。ええ反応があったとこだけ訪問する。あんちゃん、それだけでええ。あとはオレが教えたる」
その目は、獲物を見つけた動物のようにギラついていた。
「どや? 浄水器よりラクやと思わんか? あんちゃんみたいに、根性あるならな──稼げるで」
──それが、“教材ビジネス”との出会いだった。
翌日。
タクミは浄水器の会社を辞め、男の案内で、とあるビルの小さな事務所を訪れた。
そこに並ぶのは、電話とFAXだけ。
ガランとした空間に、胡散臭い熱気だけが漂っていた。
だが──タクミは、そこに「夢」を見た。
金。女。ブランド物。夜の街。
フラれたあの女の顔が、ぐるぐると浮かんでは消えていく。
「よっしゃ……稼いだる!」
タクミの中の“何か”が、心に火を灯した。
第2話へつづく