第1話:タクミ大阪に立つ!

風が冷たい。

夜明け前の大阪駅前で、島田巧(しまだたくみ)は、黒ずんだ革靴のかかとを引きずるように歩いていた。

靴底には、ガムテープ。
何度も貼り直しているため、すでに輪郭がボソボソにほつれている。

ズボンの膝も薄くなりすぎて、よく見れば地肌が透けている。
だが、替えのズボンなど持っていない。
裏からガムテープを当てて、それで「行く」しかない。

誰が見ても貧乏。

だが、本人だけは“野望に燃えているつもり”だった。

──金さえあれば、女にも勝てる。

そう思うことにした。
それしか、思えるものがなかった。

大学3年の冬。
四国のある大学に在籍していたタクミは、生まれて初めて、女に告白をした。

相手は学部の一年下の女子。
一度だけ、帰り道が一緒になり、思い切って声をかけた。

その笑顔が忘れられなかった。
数日後、思い切って彼女を呼び出した。

道の駅のベンチで、手紙を差し出し、告白した。

「……ごめんなさい」

その一言だけだった。

彼女は何も言っていない。

けれど、タクミは勝手にそう解釈した。
(オレが貧乏だから、フラれたんや……)

彼女が身につけていた服は、たしかにブランド物だった。
化粧も洗練されていた。
小綺麗で、育ちも良さそうで、正直、分不相応だった。

だが、それでも……。

(金さえあれば……!)

大学を中退した。

親には「起業する」と嘯き、半ば勘当された。

目指したのは大阪。

でっかい街。でっかい金が動く街。

「金と女や。オレはそっち側に行くんや」

誰にともなく、そうつぶやいていた。

最初に就いた仕事は、家庭用の浄水器販売だった。

もちろん、電話営業なんて甘いものではない。
地図を片手に、ピンポン・ピンポンと玄関ベルを鳴らしまくる“飛び込み”営業。
 
「奥さん、最近の水道水、不安じゃないですか?」

「トリハロメタン──聞いたことありますよね?」

「うちは“よどんでる淀川”を浄化する力、持ってますから!!」

そんなセリフを毎日繰り返していた。

昼も夜も、インターホン越しに「結構です」と冷たく切られる。

ときには怒鳴られ、門前払いされる。

食費が尽きた夜、タクミは、公園のベンチで寝るしかなかった。

冬の夜風が、薄いスーツの隙間から吹き込んでくる。
 
──金があれば、温かい部屋で寝られるのに。
──金があれば、女だって笑ってくれるのに。

ズボンの股が破けた。
買い替えなどできない。

文房具店で買ったガムテープを裏から当て、それでまた、次の朝もインターホンを鳴らし続けた。

ある夜。

結果ゼロの一日を終えて、とぼとぼ歩いていたときだった。

「あんちゃん、ちょっとええか?」

商店街の明かりの下、派手なネクタイの初老の男が声をかけてきた。

見るからに「中小企業の怪しい社長」の風体。

「あんちゃん、今、なに売ってんのや?」

「……浄水器、ですけど」

男はニヤッと笑った。

「はは、時代ちゃうな。これからはな、教材やで」

「教材?」

「せや。今の親御さんは、“教育”って言葉に弱いんや。」

「教育、にですか?」

「そや。浄水器?それは水やろ? でも、教材は“将来”や。“大学合格”や。夢があるんや」

タクミは黙っていた。

ただ、心の奥で“金の匂い”を感じていた。

「名簿はある。電話営業や。ええ反応があったとこだけ訪問する。あんちゃん、それだけでええ。あとはオレが教えたる」

その目は、獲物を見つけた動物のようにギラついていた。

「どや? 浄水器よりラクやと思わんか? あんちゃんみたいに、根性あるならな──稼げるで」

──それが、“教材ビジネス”との出会いだった。

翌日。

タクミは浄水器の会社を辞め、男の案内で、とあるビルの小さな事務所を訪れた。

そこに並ぶのは、電話とFAXだけ。

ガランとした空間に、胡散臭い熱気だけが漂っていた。

だが──タクミは、そこに「夢」を見た。
金。女。ブランド物。夜の街。

フラれたあの女の顔が、ぐるぐると浮かんでは消えていく。

「よっしゃ……稼いだる!」

タクミの中の“何か”が、心に火を灯した。

第2話へつづく