第2話:教材の訪問販売

第1話からのつづき
 
その男の名は──伊藤八郎(いとう・はちろう)。

だみ声に、口の端にこびりついたヤニ。
真夏のアスファルトみたいに焼けた肌。
蝶ネクタイに派手なスーツ。
まさにコテコテという文字を絵に描いたような大阪のオッチャンだった。

だが──その目だけは、妙にギラついていた。

「アンちゃん、声がデカいのは才能や。しかも無駄にエエ声してる。そこがええんや」

妙に押しの強いその男は、自称「老兵まっしぐらの教材屋」。

「ワシかてな、もう若い連中にゃ『旧日本軍の生き残り』みたいに言われとるわ。けどな、まだ一発あるんや」

イトウは、大阪の“教材屋”界隈では、ちょっとした有名人だった。

「考えてみ。アンちゃん、浄水器売るって、ドブ板営業やろ? ピンポンして断られて、雨でも風でも、歩くしかない。でもな──教材はちゃう。名簿があるんや。電話一本でアポ取って訪問するだけ。昭和もそろそろ終わりかけとる時代や。ラクして稼ぐ術くらい覚えとかな、アホみたいやで?」

その“名簿”というのも、要は近所の中学生の卒業アルバム。

「おっちゃんな、マクドで奢ったるから、卒アル一晩だけ貸して?」

そんな一言で子どもたちはホイホイとアルバムを差し出す。

イトウはそれを会社に持ち込み、コピーを取り、名簿に仕立て上げる。

卒業アルバムを返すときには、この言葉も忘れない。

「小学校の友達で仲良いやつおらん? 紹介してくれたら、おまけにナゲットもつけたるで」

こうして、他の学校の「名簿付き卒業アルバム」のコピーが芋づる式に増えていく。

「偏差値40から55くらいのとこが狙い目や。そこそこ希望はあるけど、心配な親が多い。塾にも行かしとる。そういう家庭が、一番“教材”に金を出す」

そして、タクミは電話機の前に座った。

配られたのは、コピーされた卒アルの名簿──まだ個人情報という概念のない時代の名前、住所、電話番号が記載されたリストだ。

震える指でダイヤルを回す。

「あっ、もしもし、川村くんのお宅ですか? いま、勉強のサポートをさせてもらってる教材センターの者なんですがね……」

相手の声が高校生くらいだったら、むしろラッキーだった。

「おう、君、高校生やろ? ええとこ出たわ。塾とか予備校って、金かかるで? せやけどな、塾行かんでも、大学に受かる方法があるんや。知りたいんちゃう?」

電話の向こうが黙ったら、畳みかける。

「しかもな、塾とか予備校の学費、親に払わせへんってのはな、立派な親孝行や。君、親孝行やろ?」

まさか「いいえ」とは言えない。

「はい……そうですね」

「やろ? そうやろ? 君は偉いわ! ほんまに立派や。」

そして、たたみかける。

「せやからな、おっちゃん、特別に“その方法”教えに行ったるわ。明日の夕方、家におるか?」」

これでアポ成立。

持っていくのは、パンフレットと数冊のサンプル教材。
そして契約書一式。

ちゃぶ台の上で広げられるのは、教材の資料と未来の夢だ。

うまくいけば、その場でハンコをもらえる。

「さあ、今日はコウタロウくんの未来を変えるお話をしに来ました!」

資料を机の上に広げ、親の目を見て語る。

「この教材、塾いらず、家庭教師いらず、しかも大学合格保証つき……ってわけじゃないですけど、使い倒せば、合格は現実になります」

そして──

「お値段、80万円です」

「えっ……そんなにするの?」

「あっ、でも、お母さん、ちょっと考えてください。塾代、交通費、3年間で考えたら、実はこっちの方が断然安いんですわ。それに、大学に受かってくれたら、元が取れる。これは“未来”への投資なんですよ」

ガムテープ補修の靴を履いたまま、タクミは頭を下げ、声を張った。

「お願いしますッ!」

──そして、初契約。

その瞬間、体の奥に快感が走った。

相手の親が少しでも興味を示せば、そこがチャンス。

機を逃さず一気に畳み掛け、契約書にサインをさせる。

そして数日後、契約家庭に「ドンッ!」と段ボール三箱分の教材が届く。

それが、この商売のやり方だった。

1件の歩合は15万円〜20万円。

週に1本を取れば、月に4本の契約になる。
あっという間に手取り月収80万円超え。

その夜、串カツ屋でイトウが言った。

「な? 言うたやろ、兄ちゃん。人生はな、回ってるうちに食う“回転寿司”みたいなもんや。皿は早よ取らな、目の前から消えるんや」

翌週にはキャバクラ。

次の月にはパチンコで一発当てて、サファリ柄のジャケットを買った。

だが、心の奥にあるのは、あのときフラれた女の笑顔。
そして、自分が持たなかった金と、見栄と、肩書き。

──タクミの虚妄は、今、静かに加速を始めていた。

第3話へつづく