第2話からのつづき
あれから数年の歳月が過ぎた。
大阪の町にも徐々に冷たい風が吹き始めていた。
タクミはコンスタントに月数本の契約を取ってはいたが、少しずつ時代の潮目というものを肌で感じはじめていた。
そう、教材を売るだけでは、売りっぱなしというわけにはいかなくなってきた。
苦情、返品、トラブルが少しずつ増えてきたのだ。
「高すぎるわ、こんな教材!」
「内容が薄い!」
「金返せ!」
電話一本で契約を取っていた男たちが、今度は電話一本で怒鳴られる日々。
「販社」と呼ばれる教材販売の会社は、どこも火の車だった。
イトウ八郎は言った。
「せやから、みんな夜逃げするんや」
雑居ビルの3階。
ペラい机と折りたたみ椅子の並ぶ事務所で、イトウは煙草をくわえたまま、ポットで湯を沸かしていた。
「売るだけ売って、あとはドロン。そんなとこが増えてきた。けどな、あんちゃん、大阪で夜逃げを繰り返しとったら、もう営業できへんようになるんや」
「なぜですか?」
「どこ行っても、同じ顔ぶれやさかいな。逃げ癖ついた教材屋の顔なんて、すぐバレる。引っ越し代もバカにならんしな」
湯気の向こうで、イトウがニヤリと笑った。
「せやから、うちは教室を作ったんや。ビルの隅の部屋がそうや」
「あの空き部屋に机運んでたのは、そのためだったんですね」
「せや。質問教室」
「質問教室、ですか』
「そうや。教材だけじゃ不安やろ? けどな、“アフターサービスがある”言うたら、親はコロッといく」
イトウの指が空中にフリップを描いた。
「教材に分からんとこがあっても安心です。うちは質問教室ありますさかいな。質問教室で阪大や京大の学生が質問にお答えします!──これや」
「なるほど!」
「会社に小さい教室があったら信用されるで。いつでも質問し放題です言うたらな、親は勝手に安心するんや」
「でも、、」
「そう、でも、実際に質問しに来る子なんて、ほとんどおらんと思わんか?」
「そうですね」
「せやろ? 誰もこおへん。だから、儲けやすいんや」
まるで、無敵のシステム。
イトウが目を細めて言った。
「名付けて、誰も来ない質問教室や。質問しにくる子供なんか、実際はゼロ」
そう、ゼロなはず。
……だった。
最初のうちは。
「◯◯くん、分からへんとこあったら、ウチの教室いつでも来いや。おっちゃんが東大流で教えたるわ!」
営業トークの中で、タクミは気軽にそう言っていた。
ほとんどは冗談だった。
だが──
ある日、ほんとうにやって来た。
「こんにちは……あの、島田先生いらっしゃいますか」
男子高校生だった。手には、使い込まれた英語の問題集。
「昨日、電話で言ってた、“質問教室”って……ここですよね?」
「……お、おう! ここや。よう来たな!」
タクミは、一瞬焦った。
が、次の瞬間、営業マンとしてのスイッチが入った。
「君、よう来たな! そのやる気、ええな! ほな、どこが分からへんのや? 先生に見せてみ」
先生。
その響きに、タクミの中の何かが、ピクリと動いた。
最初のうちは適当に答えていた。
わからないところは、事務所にいた阪大生のバイトに投げた。
だが──
次第に、自分で答えたくなってくる。
いや、「答えられるフリ」をしたくなってくる。
「これはな、“主語と動詞”が離れとるから読みづらいだけや」
「ここは“傍線部”を疑えってのが受験の鉄則や」
自信満々に言っているが、知識の半分はハッタリ。
だが、生徒は感心したようにうなずく。
「先生、すごいっすね……」
その言葉が、タクミを少しずつ変えていった。
──気づけば、質問教室のカギを預かっていた。
──気づけば、自分のデスクが置かれていた。
──気づけば、名刺を勝手に作っていた。
島田巧 質問教室 塾長
「塾長、ここ、数学の質問なんですけど……」
「おお、任しとけや、東大流の視点で見たるわ」
イトウは、そんなタクミを遠くから見て、ぼそりと呟いた。
「……あいつ、“先生ごっこ”にハマりよったな」
だが、「ごっこ」は、次第に現実になりつつあった。
第4話へつづく