第3話:質問教室、始めました

第2話からのつづき

あれから数年の歳月が過ぎた。

大阪の町にも徐々に冷たい風が吹き始めていた。

タクミはコンスタントに月数本の契約を取ってはいたが、少しずつ時代の潮目というものを肌で感じはじめていた。

そう、教材を売るだけでは、売りっぱなしというわけにはいかなくなってきた。
苦情、返品、トラブルが少しずつ増えてきたのだ。

「高すぎるわ、こんな教材!」
「内容が薄い!」
「金返せ!」

電話一本で契約を取っていた男たちが、今度は電話一本で怒鳴られる日々。
「販社」と呼ばれる教材販売の会社は、どこも火の車だった。

イトウ八郎は言った。

「せやから、みんな夜逃げするんや」

雑居ビルの3階。
ペラい机と折りたたみ椅子の並ぶ事務所で、イトウは煙草をくわえたまま、ポットで湯を沸かしていた。

「売るだけ売って、あとはドロン。そんなとこが増えてきた。けどな、あんちゃん、大阪で夜逃げを繰り返しとったら、もう営業できへんようになるんや」

「なぜですか?」 

「どこ行っても、同じ顔ぶれやさかいな。逃げ癖ついた教材屋の顔なんて、すぐバレる。引っ越し代もバカにならんしな」

湯気の向こうで、イトウがニヤリと笑った。

「せやから、うちは教室を作ったんや。ビルの隅の部屋がそうや」

「あの空き部屋に机運んでたのは、そのためだったんですね」

「せや。質問教室」

「質問教室、ですか』

「そうや。教材だけじゃ不安やろ? けどな、“アフターサービスがある”言うたら、親はコロッといく」

イトウの指が空中にフリップを描いた。

「教材に分からんとこがあっても安心です。うちは質問教室ありますさかいな。質問教室で阪大や京大の学生が質問にお答えします!──これや」

「なるほど!」

「会社に小さい教室があったら信用されるで。いつでも質問し放題です言うたらな、親は勝手に安心するんや」

「でも、、」

「そう、でも、実際に質問しに来る子なんて、ほとんどおらんと思わんか?」

「そうですね」

「せやろ? 誰もこおへん。だから、儲けやすいんや」

まるで、無敵のシステム。

イトウが目を細めて言った。

「名付けて、誰も来ない質問教室や。質問しにくる子供なんか、実際はゼロ」

そう、ゼロなはず。
……だった。

最初のうちは。

「◯◯くん、分からへんとこあったら、ウチの教室いつでも来いや。おっちゃんが東大流で教えたるわ!」

営業トークの中で、タクミは気軽にそう言っていた。

ほとんどは冗談だった。

だが──
ある日、ほんとうにやって来た。

「こんにちは……あの、島田先生いらっしゃいますか」

男子高校生だった。手には、使い込まれた英語の問題集。

「昨日、電話で言ってた、“質問教室”って……ここですよね?」

「……お、おう! ここや。よう来たな!」

タクミは、一瞬焦った。

が、次の瞬間、営業マンとしてのスイッチが入った。

「君、よう来たな! そのやる気、ええな! ほな、どこが分からへんのや? 先生に見せてみ」

先生。

その響きに、タクミの中の何かが、ピクリと動いた。

最初のうちは適当に答えていた。

わからないところは、事務所にいた阪大生のバイトに投げた。

だが──

次第に、自分で答えたくなってくる。
いや、「答えられるフリ」をしたくなってくる。

「これはな、“主語と動詞”が離れとるから読みづらいだけや」

「ここは“傍線部”を疑えってのが受験の鉄則や」

自信満々に言っているが、知識の半分はハッタリ。

だが、生徒は感心したようにうなずく。

「先生、すごいっすね……」

その言葉が、タクミを少しずつ変えていった。
 
──気づけば、質問教室のカギを預かっていた。
──気づけば、自分のデスクが置かれていた。
──気づけば、名刺を勝手に作っていた。

島田巧 質問教室 塾長

「塾長、ここ、数学の質問なんですけど……」

「おお、任しとけや、東大流の視点で見たるわ」

イトウは、そんなタクミを遠くから見て、ぼそりと呟いた。

「……あいつ、“先生ごっこ”にハマりよったな」

だが、「ごっこ」は、次第に現実になりつつあった。

第4話へつづく