第4話からのつづき
東京・池袋。
東口の雑踏を抜け、裏路地へ入ると、それはまるで場末の闘技場だった。
薄汚れた赤いビル──
教材会社『日本進学開発センター株式会社』の事務所は、その5階にあった。
「初出勤でいきなり営業部長かいな……」
島田タクミは、エレベーターの壁に映る自分を見ながら呟いた。
いや、タクミは“部長”であることには一切疑いを持っていない。
面接時に「教材経験あり」と言った瞬間、採用どころか「即戦力」扱い。
「経験者なんて久々ですよ!」と支社長が手を叩いて喜んでいた。
それが、“赤いビルの魔窟”のやり口だった。
「おはようございます! 部長ぉ!」
「部長、今週ノルマ、10件っすよ!」
いきなり“部長”と呼ばれる。
だが、タクミの机はパイプ椅子と折りたたみテーブル。電話はダイヤル式。
名刺も、白紙に自分でボールペンで名前を書く方式だった。
「部長いうのは名ばかりやな……」
しかし、笑いながら思う。
「けどな、“名ばかり”はワシの十八番や」
教材の営業は、東京スタイルだった。
名簿業者から仕入れた住所リスト。
資料請求した覚えのない家庭に電話をかけまくる。
「今だけ、国公立5教科対応パッケージが、特別価格で──」
「お子様が目指してる◯◯大学、実はウチの教材、合格実績があるんですわ」
──すべて、嘘である。
合格者数、講師名、推薦者コメント。
半分手書きの“信憑性のありそうなチラシ”が、机に山積みされていた。
タクミは、最初の2日間は戸惑った。
が、3日目には笑っていた。
「……これ、よく考えたら関西よりエグいな」
そしてニヤリと笑った。
(でも、オレの方が東京モンより上手く騙せる)
「よう喋る関西弁」と「熱意ある風の説教口調」。
それが、ここでも刺さった。
「お母さん、“今”が分かれ道なんですよ! これは投資やと思うてください!」
最初の契約は、わずか5分で取れた。
80万円の教材に、オプションの“合格祈願セミナー”をつけて。
タクミは浮かれていた。
夜の池袋に出て、牛丼とビールを腹に詰め込みながら、こう呟いた。
「……いける。オレ、東京でも“通用する”わ」
だが、その夜。
教材販売会社に、消費者センターからの警告が入った。
「合格保証」「カリスマ講師推薦」など、表示に虚偽あり。
すでに複数のクレームと契約無効申請が出ていた。
翌日、事務所は騒然とした。
バイト営業マンは次々に失踪。
責任者は“名ばかり社長”で所在不明。
いわゆる夜逃げというやつだ。
机が倒れ、電話は止まり、最後まで事務所に残っていたのは、タクミただ一人だった。
午後3時。
赤いビルの前で、タクミは煙草に火をつけた。
風が強くて、3回擦ったあと、ようやく火がついた。
「またゼロからやな」
誰に言うでもなく、独り言のように呟いた。
名刺も、金も、肩書きも、仲間も、全部なくなった。
残ったのは、ガムテープで補修した靴と、デカい声だけ。
「けどな、“野良犬”の方が動きやすいんや」
そう言って、彼は裏路地の先へと歩き出した。
ネオンの明かりが、彼の背中を照らしていた。
その背中に、“塾長”の文字は、まだなかった。
第6話へつづく