「先生、うちの子、最近毎日通ってるんです。なんか、自習室が楽しいって……不思議ですね」
新大久保の2LDK。
ちゃぶ台に置かれた電話の向こうで、保護者の声がふわっと響く。
島田タクミは、鼻の穴を広げながら呟いた。
「やっと、ワシの“風”が吹いてきたわ」
その“風”とは──
居場所。
大久保に移ってから、タクミは気づいていた。
質問に来る生徒たちの中には、特に何かを聞くわけでもなく、ただ机に座って、ダラダラと単語帳を眺めて帰る子が増えていた。
最初は不思議だった。
だが、ある日ふと、こう思った。
(……そうか。家に居づらいんやな)
親がうるさい。
妹がうざい。
テレビがうるさい。
何もしない自分に、母親がヒステリー。
──だから、来る。
ここに来れば、怒られない。
ちょっと本を開けば、「偉いなぁ」と褒めてくれるオッチャンがいる。
タクミは、誰に教えられたわけでもなく、この“需要”を嗅覚で察知していた。
それから彼は、こんなスローガンを掲げた。
「圧倒的自習時間!」
「10時間いても怒られない塾」
「君の“居場所”、ここにある」
授業はしていない。
教材も売ったり売らなかったり。
指導方針? そんなもん、ない。
だが、自習室だけは、やたら広くした。
アパート近くに、ちょうど広くて安い物件が空いたので借りることができたのだ。
リサイクルショップで机と椅子を8組買った。
カーテンを外し、窓を全開にして、「ここ、図書館か?」という雰囲気を醸し出す。
タクミは生徒たちにこう言った。
「ええか、お前ら。勉強ってのはな、“空気”が9割や」
「この塾に流れてる空気はな、“東大の空気”や。吸え、深く吸え」
すると、生徒たちは笑いながらも、通い続けた。
そのうち、1日中ここで過ごす生徒も出てきた。
朝10時に来て、夜9時半までいる。
合間にコンビニでおにぎりを買い、戻ってきて、また問題集を開く。
そして、事件が起きた。
ある生徒が、模試で偏差値を20上げたのだ。
しかも、国語と英語、両方で。
タクミは大喜びでこう言った。
「……やっと、ワシの“言葉”が届いたんやな」
(※なお、その生徒は国語教師の父と、英検準1級の姉がいた)
それでも──その“成果”は、塾の広告に載った。
「たった3ヶ月で偏差値20アップ!」
「通えばわかる、“空気”の力!」
その年、もう一人が法政大学経済学部に合格。
この生徒は、大東亜帝国(※)のどこかに引っ掛かれば御の字だと言われていた程度の学力だった。
さらにもう一人が、地方国公立大の理系に“滑り込み”。
たった3人。
だが、“絶対数”で見ると、「3人受かった塾」になった。
保護者会では、タクミがこう言った。
「正直ね、うちは超一流講師とかおりません。でもね、生徒は毎日来ます。お子さんの“帰る場所”になります」
「成績ってのは、“毎日座る場所”で決まるんですわ」
母親たちは、涙ぐみながら頷いた。
そして、帰り際、こんなことを言った。
「先生……本当にありがとうございます。うちの子、あんなに“家にいなかった”の、初めてで……助かってます」
タクミはそれを「教育の勝利」だと信じていた。
第9話へつづく
※大東亜帝国…大東文化大学、東海大学、亜細亜大学、帝京大学、国士舘大学の頭文字をとって作られたグループ名。
「早慶上智」「GMARCH」「日東駒専」など、難易度や知名度でくくられた大学群のグループ名の一つ。