それは、まったくの偶然だった。
「先生、漢文、全然わかんないっす……」
ある日の自習室。
駒沢仏教科のバイトが座禅を組みかけている隣で、高校2年の男子がノートを広げ、眉間にしわを寄せていた。
タクミは、それを横目で見ながら、内心こう思った。
(めんどくさ……)
正直、漢文なんてちゃんと教えたこともない。
だが、ふと、高校時代の記憶がよみがえった。
──中間テスト直前。
教科書の漢文を、意味も分からず丸写しした。
そしたら、なぜか8割取れた。
(あれや!)
タクミは、まるで神託を受けたように口を開いた。
「……写せ。丁寧にな。筆圧も込めて、心を込めて、写すんや」
生徒は口をポカンと開けている。
「全部写したら、オレに持ってこいや」
男子生徒はキョトンとしたが、素直に従った。
何ページにもわたる漢文を、ノートにびっしり写した。
タクミはチラッとそれを見て、「うん、魂がこもっとる」と適当に褒めた。
──そして、数週間後。
「先生、漢文、満点でした!!」
男子生徒は目を輝かせて報告してきた。
タクミは一瞬、ポカンとしたが、すぐに胸を張った。
「……せやろ?これが、ホンマの“経典”や」
周囲で聞いていた生徒たちも、「え?写すだけでいいの?」「俺もやろかな」とザワつきはじめた。
──それが、すべての始まりだった。
◆
青チャート。
基礎問題精講。
Focus Gold。
学校の配布プリント。
とにかく、生徒に持ってこさせた。
「わからんかったら写せ」
「赤ペンで写せ」
「写してたら、そのうち気づくわ」
最初は半信半疑だった生徒たちも、写しているうちに、「あれ?なんかわかってきたような気がする」となった。
そして一人、また一人と、偏差値を上げ始めた。
模試の成績が10アップ。
定期テストで学年トップ10入り。
生徒たちは口々に言った。
「カンゾウ、マジでスゴいっす」
「カンゾウの自習室、ヤバいっす」
「なんか知らんけど、成績上がるっす」
タクミは、赤い革張りの椅子に座りながら、満面の笑みを浮かべた。
「ワシが──“風”そのものになった瞬間やな」
その日、彼は「カンゾウ憲章」を自ら口にした。
「塾は、“授業”やない。塾は、“声”と“空気”と、ほんで──“経典”や」
そして、こう付け加えた。
「写経は、未来を写すことや」
名もなき高校生たちが、今夜もカンゾウの自習室でペンを走らせる。
カリカリ……カリカリ……
まるで、未来を自らの手で刻むかのように。
だが、その奇跡の仕組みを、誰よりも信じていないのは、他ならぬタクミ本人だった。
──まあ、うまくいきゃ、それでええわ。
第10話へつづく