あれから十数年の月日が流れた。
高田馬場、川沿いの灰色の6階建て雑居ビル。
その最上階、カンゾウ(関東学力増進機構)の心臓部、島田タクミの「塾長室」。
応接セット。
分厚いカーテン。
そして、中央に鎮座する巨大な黒いデスク。
備品は、大久保時代とさして変わらない。
コーヒーメーカーも安物だし、観葉植物もフェイクグリーン。
ただ──
灰皿だけが違った。
クリスタル製、重量感たっぷり。
まるで成り上がりの象徴のように机の上で鈍く光っていた。
そして、デスクに座る男。
オールバック。
ラガーシャツ。
肘掛け付きの椅子で、ふんぞり返る──
島田タクミ、カンゾウの塾長である。
「社長! 夏期講習の企画書、上がりました!」
「塾長、決済印お願いします!」
社員たちが次々に塾長室へと入ってくる。
そのたびに、タクミは肘掛けに腕を置き、くわえタバコで偉そうに、いや、自然に、こう答えた。
「一応、目ぇ通しといたるわ。ワシ、この会社の首魁であり総帥やからな」
「代表取締役社長として、きっちり捺印しといたで」
「来週の本部(※支部はない)の定例役員会議(※課長クラスばっかり)で俎上に載せる案件やのう」
言葉だけは立派だった。
だが──
言ってる本人は、特に意味を分かっていない。
それでも、場の空気と肩書きが、彼を“帝王”にしていた。
ある日のこと。
「失礼します」
塾長室のドアをノックして地味なスーツ姿の男が入ってきた。
教材見本を抱え、ぺこぺこと頭を下げている。
権藤龍太郎(ごんどうりゅうたろう)。
カンゾウにやってきた教材会社の営業マンだった。
タクミは、ゴンドウを一瞥すると、鼻で笑った。
「で、おたくの教材、何が売りや?」
ゴンドウは、机に教材を並べ始める。
世界史、現代文、漢文、数IIB──よくあるセットだ。
タクミは顔をしかめた。
「──それより、名簿持ってるか?」
ゴンドウの手が止まる。
「あ、ええ、まぁ……多少は……」
「どこの学校や? 公立か? 私立か? 中高一貫か? 女子高か?」
タクミは矢継ぎ早に畳みかけた。
慌てて封筒を出すゴンドウ。
それを受け取ったタクミは、机の引き出しから札束の入った封筒をポンと投げ渡した。
──この瞬間、立場は決まった。
数ヶ月後。
ゴンドウはすっかりカンゾウに馴染んでいた。
数週間に一度、新大久保の喫茶店で、ゴンドウは封筒とUSBメモリーをタクミに渡し、タクミからは現金を受け取る。
ゴンドウは、愛想笑いを浮かべながらも「カンゾウ、いつまで持つかわからんが、それまでは、細く長く付き合うか」と、そう冷静に計算していた。
その夜。
カンゾウ最上階・塾長室。
赤いカーペットの上を、タクミはドスドスと歩き回っていた。
「おう、ゴンドウ! 今夜は飲みに行くぞ!!」
そして、にやりと笑った。
「おでんだけどな!! ガハハ!」
ゴンドウは、苦笑いを浮かべながら、「へい」と短く答えた。
ふたりの背中は、夜の歌舞伎町へと消えていった。
バブル崩壊後も、いかがわしさと、たくましさを巧みに織り交ぜながら生まれ変わり続ける歌舞伎町。
古びた看板が倒れ、新しいネオンがまた灯る。
街は昨年とは別の表情に変わり続ける。
潰れては生まれ、沈んでは浮かび上がる。
欲望と虚飾が溶け合い、酒と香水の香りが入り混じる路地。
怪しい。
しかし、その怪しさは、同時に抗いがたい華やかさでもあった。
滅びと再生を繰り返すその街並みに、野望と虚飾を抱えた「認められたい男」たちの影が交じる。
彼らは笑われても、どん底に落ちても、まだ何かを掴もうともがく。
みっともなくも逞しく生きながらえてきた背中が、ネオンに照らされ、一瞬だけ眩しく浮かび上がる。
島田タクミとゴンドウ龍太郎もまた、そのしたたかな生命力に満ちたこの街光と影の渦へ、吸い込まれていった。
─完─
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