第12話(終):カンゾウの帝王

あれから十数年の月日が流れた。

高田馬場、川沿いの灰色の6階建て雑居ビル。

その最上階、カンゾウ(関東学力増進機構)の心臓部、島田タクミの「塾長室」。

応接セット。
分厚いカーテン。
そして、中央に鎮座する巨大な黒いデスク。

備品は、大久保時代とさして変わらない。
コーヒーメーカーも安物だし、観葉植物もフェイクグリーン。

ただ──
灰皿だけが違った。
クリスタル製、重量感たっぷり。
まるで成り上がりの象徴のように机の上で鈍く光っていた。

そして、デスクに座る男。
オールバック。
ラガーシャツ。
肘掛け付きの椅子で、ふんぞり返る──
島田タクミ、カンゾウの塾長である。

「社長! 夏期講習の企画書、上がりました!」

「塾長、決済印お願いします!」

社員たちが次々に塾長室へと入ってくる。

そのたびに、タクミは肘掛けに腕を置き、くわえタバコで偉そうに、いや、自然に、こう答えた。

「一応、目ぇ通しといたるわ。ワシ、この会社の首魁であり総帥やからな」

「代表取締役社長として、きっちり捺印しといたで」

「来週の本部(※支部はない)の定例役員会議(※課長クラスばっかり)で俎上に載せる案件やのう」

言葉だけは立派だった。

だが──

言ってる本人は、特に意味を分かっていない。

それでも、場の空気と肩書きが、彼を“帝王”にしていた。

ある日のこと。

「失礼します」
 
塾長室のドアをノックして地味なスーツ姿の男が入ってきた。

教材見本を抱え、ぺこぺこと頭を下げている。
権藤龍太郎(ごんどうりゅうたろう)。

カンゾウにやってきた教材会社の営業マンだった。

タクミは、ゴンドウを一瞥すると、鼻で笑った。

「で、おたくの教材、何が売りや?」

ゴンドウは、机に教材を並べ始める。

世界史、現代文、漢文、数IIB──よくあるセットだ。

タクミは顔をしかめた。

「──それより、名簿持ってるか?」

ゴンドウの手が止まる。

「あ、ええ、まぁ……多少は……」

「どこの学校や? 公立か? 私立か? 中高一貫か? 女子高か?」

タクミは矢継ぎ早に畳みかけた。

慌てて封筒を出すゴンドウ。

それを受け取ったタクミは、机の引き出しから札束の入った封筒をポンと投げ渡した。

──この瞬間、立場は決まった。

数ヶ月後。

ゴンドウはすっかりカンゾウに馴染んでいた。

数週間に一度、新大久保の喫茶店で、ゴンドウは封筒とUSBメモリーをタクミに渡し、タクミからは現金を受け取る。

ゴンドウは、愛想笑いを浮かべながらも「カンゾウ、いつまで持つかわからんが、それまでは、細く長く付き合うか」と、そう冷静に計算していた。

その夜。

カンゾウ最上階・塾長室。

赤いカーペットの上を、タクミはドスドスと歩き回っていた。

「おう、ゴンドウ! 今夜は飲みに行くぞ!!」

そして、にやりと笑った。

「おでんだけどな!! ガハハ!」

ゴンドウは、苦笑いを浮かべながら、「へい」と短く答えた。

ふたりの背中は、夜の歌舞伎町へと消えていった。

バブル崩壊後も、いかがわしさと、たくましさを巧みに織り交ぜながら生まれ変わり続ける歌舞伎町。

古びた看板が倒れ、新しいネオンがまた灯る。
街は昨年とは別の表情に変わり続ける。
潰れては生まれ、沈んでは浮かび上がる。

欲望と虚飾が溶け合い、酒と香水の香りが入り混じる路地。

怪しい。

しかし、その怪しさは、同時に抗いがたい華やかさでもあった。

滅びと再生を繰り返すその街並みに、野望と虚飾を抱えた「認められたい男」たちの影が交じる。

彼らは笑われても、どん底に落ちても、まだ何かを掴もうともがく。
みっともなくも逞しく生きながらえてきた背中が、ネオンに照らされ、一瞬だけ眩しく浮かび上がる。

島田タクミとゴンドウ龍太郎もまた、そのしたたかな生命力に満ちたこの街光と影の渦へ、吸い込まれていった。

─完─

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