──カンゾウの「関東上陸部隊」電話営業室。
壁に沿って並べられた、くたびれたデスク。
タバコの焦げ跡だらけの受話器。
張り詰めた空気の中に、ときどきカラカラと乾いた笑い声がこぼれる。
ここが、カンゾウの心臓──命の電話を生み出す戦場だった。
その中に、ひときわ異様なオーラを放つ男がいた。
名を、金田(カネダ)という。
彼は、異名を持っていた。
──崖っぷちパワー。
普段のカネダは、机に突っ伏して寝ているか、休憩室でハッピーターンをボリボリ食っているだけだった。
だが──
財布の中身が尽きたとき。
手持ちがスッカラカンになったその瞬間。
彼は、別人のようにスイッチが入った。
「兄ちゃん、奇跡起こしたないか!?」
「今この瞬間が、親孝行の分かれ道やぞ!!」
声を張り上げ、机に汗を飛ばしながら、鬼のような勢いで電話をかけ続ける。
契約が取れる否か。
そんなことすらカネダの頭にはなくなる。
生きるか死ぬか──
それだけだった。
◆
ある日。
カネダは、たった1日で5件の契約を叩き出した。
手持ちが限りなくゼロに近かった男が、給料日(正確には「報酬の支払日」)には100万円以上を手にしていた。
その夜。
酎ハイ片手にカネダは豪快に笑った。
「ワシ、天才ちゃうか!? 神やろこれ!!」
「見たか見たか、奇跡やぞ奇跡!」
営業室の隅にいた何人かが、うすら寒い笑いを浮かべた。
(──また始まった)
皆、知っていた。
カネダが獲った契約は、ほとんど数ヶ月以内にキャンセルされることを。
親も、子どもも、熱量だけで押し切られた結果だったからだ。
キャンセルが発生すると返金しなければならない。
当然、営業マンの報酬からもキャンセル分の金額は引かれる。
つまり、仮に来月も100万円稼いだとしても、もし今月成約した生徒たち全員が解約をすれば、差し引きゼロとなり、カネダに支払われる報酬もゼロになる。
でも、カネダは気にしない。
今夜の酒が飲めればいい。
今月の家賃が払えればいい。
「ワシらの人生は、ナマモノやからな。保存きかへん!」
そう得意気に言っていた。
──それが、カネダという男だった。
◆
だが、栄光の夜は長く続かない。
翌月、カネダは急激に契約が取れなくなった。
「おかしいな……おかしいな……なんでや……?」
ぼやきながらも、必死にアポ電を「叩く」。
「アポ電を叩く」とは、テレアポ業界の用語で営業電話をかける(アポイントの電話をかけるために電話の数字のキーを叩く)という意味だ。
営業マンには必ず好不調の波があるが、カネダはまさにそのサイクルの絶不調のどん底に突き落とされ、もがいている感があった。
追い詰められたカネダは、ついに手を出した。
──といち(10日で1割)の借金。
「すぐ返す! 5件取ったら返せる!」
そう自分に言い聞かせながら、借金で繋いだ日々。
だが、現実は甘くない。
時代は、もう電話営業に冷たかった。
取れるのは奇跡。
取れなければ、無収入。
やがて、金田の背後には──
スーツにサングラス姿の、「取り立て屋」がちらつき始めた。
◆
そしてある日。
カネダは、忽然と姿を消した。
誰に別れを告げるでもなく。
誰に引き継ぎをするでもなく。
「カネダ、トイチに捕まったらしいで」
「ボコボコにされて今頃東京湾の底かいな」
「いや、マグロ漁船ちゃうか?」
真偽はわからない。
ただ、みんな分かっていた。
カネダはまた、どこかで崖っぷちに立って、また、命の電話をかけているんだろう。
「もうワンチャンスや!!!」と。
たった一夜の、刹那の輝きを信じながら。
カネダが消えた翌朝。
カンゾウの営業室には、何も変わらない朝が来た。
ただ──
いつもの隅っこの席だけが、ぽっかり空いていた。
引き出しには、空っぽの財布と、しわくちゃになったスポーツ新聞の記事の切り抜き。
記事の見出しにはこう書いてあった。
「岡田2日連続サヨナラ打!優勝へ一直線!」
1985年9月16日の阪神タイガース・岡田彰布選手による2日連続サヨナラ打の記事だ。
カネダは岡田の活躍を思い出し、自分を奮い立たせていたのかもしれない。
そして、机のペン立てには、カネダが適当に貼り付けたメモ用紙。
「今日もワンチャンいこう!」と、殴り書き。
誰もそれに触れなかった。
誰も、彼の名前を口にしなかった。
カンゾウでは、誰かが消えても、いつだってそんなふうに、空白のまま日々が積み重なった。
命の電話は、止まらない。
今日も、どこかの家庭に、「こんにちは〜!大学受験相談センターですぅ!」という声が、元気に響いていた。
◆
「……しかし、まあ、アイツらしいな」
昼休み。
タバコ部屋で、ベテランの一人がつぶやいた。
「借金して、行方不明。いかにも、カネダの最後って感じや」
「でもさ、ちょっと羨ましくない?」
別の営業マンが笑いながら言った。
「オレなんて、ちょっと貯金できたら安心しちゃって、必死さが消えたもんな。カネダさんみたいに、“明日死ぬかも”って必死になれたら、もしかしたらもっと取れるかもって思うよ」
ベテランたちは、苦笑いを浮かべた。
「それで命落としたらアホやで」
もう一人のベテランはタバコの煙を吐きながら言う。
「まあな。でも、アイツは一瞬だけ、本気で世界を掴もうとしてたんかもしれへんな」
◆
誰も言わなかったけれど。
誰も認めたがらなかったけれど。
あの晩、カネダが成約を連発したとき。
営業室の空気は、確かに震えていた。
(ワシらも、まだやれるんちゃうか──)
そんな錯覚を、一瞬でも抱かせるくらいには、カネダは、命を燃やしていた。
◆
それから数年後。
誰も、カネダの消息を聞くことはなかった。
一説によれば、地方の寂れた漁村で、ペンキ塗りのバイトをしているらしい。
また一説によれば、東京のどこかで、いまだに電話を握りしめているらしい。
真相は、誰にもわからない。
でも、カンゾウに残された者たちは、時折ふと思い出す。
受話器に映る、自分の疲れた顔。
(──まだ、ワンチャンあるかもしれへん)
そんな幻想を握りしめるたび、ほんの一瞬、彼らの背中に、あの男の影が重なって見えることがあった。
崖っぷちで笑う、カネダの影が──。
第3話へつづく