第2話:崖っぷちパワー

──カンゾウの「関東上陸部隊」電話営業室。

壁に沿って並べられた、くたびれたデスク。
タバコの焦げ跡だらけの受話器。
張り詰めた空気の中に、ときどきカラカラと乾いた笑い声がこぼれる。
ここが、カンゾウの心臓──命の電話を生み出す戦場だった。

その中に、ひときわ異様なオーラを放つ男がいた。
名を、金田(カネダ)という。

彼は、異名を持っていた。
──崖っぷちパワー。

普段のカネダは、机に突っ伏して寝ているか、休憩室でハッピーターンをボリボリ食っているだけだった。

だが──

財布の中身が尽きたとき。
手持ちがスッカラカンになったその瞬間。
彼は、別人のようにスイッチが入った。

「兄ちゃん、奇跡起こしたないか!?」

「今この瞬間が、親孝行の分かれ道やぞ!!」

声を張り上げ、机に汗を飛ばしながら、鬼のような勢いで電話をかけ続ける。

契約が取れる否か。
そんなことすらカネダの頭にはなくなる。

生きるか死ぬか──
それだけだった。


 
ある日。

カネダは、たった1日で5件の契約を叩き出した。
 
手持ちが限りなくゼロに近かった男が、給料日(正確には「報酬の支払日」)には100万円以上を手にしていた。

その夜。

酎ハイ片手にカネダは豪快に笑った。

「ワシ、天才ちゃうか!? 神やろこれ!!」

「見たか見たか、奇跡やぞ奇跡!」

営業室の隅にいた何人かが、うすら寒い笑いを浮かべた。

(──また始まった)

皆、知っていた。

カネダが獲った契約は、ほとんど数ヶ月以内にキャンセルされることを。

親も、子どもも、熱量だけで押し切られた結果だったからだ。
キャンセルが発生すると返金しなければならない。

当然、営業マンの報酬からもキャンセル分の金額は引かれる。

つまり、仮に来月も100万円稼いだとしても、もし今月成約した生徒たち全員が解約をすれば、差し引きゼロとなり、カネダに支払われる報酬もゼロになる。

でも、カネダは気にしない。
今夜の酒が飲めればいい。
今月の家賃が払えればいい。

「ワシらの人生は、ナマモノやからな。保存きかへん!」

そう得意気に言っていた。

──それが、カネダという男だった。

だが、栄光の夜は長く続かない。

翌月、カネダは急激に契約が取れなくなった。

「おかしいな……おかしいな……なんでや……?」

ぼやきながらも、必死にアポ電を「叩く」。

「アポ電を叩く」とは、テレアポ業界の用語で営業電話をかける(アポイントの電話をかけるために電話の数字のキーを叩く)という意味だ。

営業マンには必ず好不調の波があるが、カネダはまさにそのサイクルの絶不調のどん底に突き落とされ、もがいている感があった。

追い詰められたカネダは、ついに手を出した。

──といち(10日で1割)の借金。

「すぐ返す! 5件取ったら返せる!」

そう自分に言い聞かせながら、借金で繋いだ日々。

だが、現実は甘くない。

時代は、もう電話営業に冷たかった。

取れるのは奇跡。
取れなければ、無収入。

やがて、金田の背後には──
スーツにサングラス姿の、「取り立て屋」がちらつき始めた。

そしてある日。

カネダは、忽然と姿を消した。

誰に別れを告げるでもなく。
誰に引き継ぎをするでもなく。

「カネダ、トイチに捕まったらしいで」

「ボコボコにされて今頃東京湾の底かいな」

「いや、マグロ漁船ちゃうか?」

真偽はわからない。

ただ、みんな分かっていた。

カネダはまた、どこかで崖っぷちに立って、また、命の電話をかけているんだろう。

「もうワンチャンスや!!!」と。

たった一夜の、刹那の輝きを信じながら。

カネダが消えた翌朝。
カンゾウの営業室には、何も変わらない朝が来た。

ただ──
いつもの隅っこの席だけが、ぽっかり空いていた。

引き出しには、空っぽの財布と、しわくちゃになったスポーツ新聞の記事の切り抜き。
記事の見出しにはこう書いてあった。

「岡田2日連続サヨナラ打!優勝へ一直線!」

1985年9月16日の阪神タイガース・岡田彰布選手による2日連続サヨナラ打の記事だ。
カネダは岡田の活躍を思い出し、自分を奮い立たせていたのかもしれない。

そして、机のペン立てには、カネダが適当に貼り付けたメモ用紙。
「今日もワンチャンいこう!」と、殴り書き。

誰もそれに触れなかった。
誰も、彼の名前を口にしなかった。

カンゾウでは、誰かが消えても、いつだってそんなふうに、空白のまま日々が積み重なった。

命の電話は、止まらない。

今日も、どこかの家庭に、「こんにちは〜!大学受験相談センターですぅ!」という声が、元気に響いていた。

「……しかし、まあ、アイツらしいな」

昼休み。
タバコ部屋で、ベテランの一人がつぶやいた。

「借金して、行方不明。いかにも、カネダの最後って感じや」

「でもさ、ちょっと羨ましくない?」

別の営業マンが笑いながら言った。

「オレなんて、ちょっと貯金できたら安心しちゃって、必死さが消えたもんな。カネダさんみたいに、“明日死ぬかも”って必死になれたら、もしかしたらもっと取れるかもって思うよ」

ベテランたちは、苦笑いを浮かべた。

「それで命落としたらアホやで」

もう一人のベテランはタバコの煙を吐きながら言う。

「まあな。でも、アイツは一瞬だけ、本気で世界を掴もうとしてたんかもしれへんな」

誰も言わなかったけれど。
誰も認めたがらなかったけれど。

あの晩、カネダが成約を連発したとき。
営業室の空気は、確かに震えていた。

(ワシらも、まだやれるんちゃうか──)

そんな錯覚を、一瞬でも抱かせるくらいには、カネダは、命を燃やしていた。

それから数年後。

誰も、カネダの消息を聞くことはなかった。

一説によれば、地方の寂れた漁村で、ペンキ塗りのバイトをしているらしい。
また一説によれば、東京のどこかで、いまだに電話を握りしめているらしい。

真相は、誰にもわからない。
でも、カンゾウに残された者たちは、時折ふと思い出す。
受話器に映る、自分の疲れた顔。
(──まだ、ワンチャンあるかもしれへん)

そんな幻想を握りしめるたび、ほんの一瞬、彼らの背中に、あの男の影が重なって見えることがあった。

崖っぷちで笑う、カネダの影が──。

第3話へつづく