第4話:元・公立高教師の末路

彼は、最初から、少し浮いていた。

新巻坂太志(あらまきざかふとし)。

履歴書には「都立高校 元物理教師」とあった。
年齢は50代後半。

背筋はシャキッとしていたが、どこか「学校」という小さな世界でしか生きてこなかった、そんな匂いが漂っていた。

「電話営業? まぁ、教えるよりはラクそうですね!」

初日にそう言って、ニコニコしていたが、誰も、その言葉を信じていなかった。

(甘いな……ここは戦場や)

営業マンたちは心の中でつぶやいた。

アラマキザカは、基本的に喋りが一本調子だった。

しかも語尾に説教くささが滲み出ている。

「…そう思わないかね?」

「…まあ、私はそう思うんだけどね。」

「…君もそう思うだろ?」

「…そういうことだよ。わかるだろ?」

──正直、しんどかった。

彼の授業を受けていた高校生たちもしんどかったに違いない。

電話の向こうで、生徒も親も無言になる。

他の営業マンたちも、耳を塞ぎたくなる話し方。

上長は基本的な営業トークのスクリプト(台本)を朗読させ、アラマキザカの語尾につける説教臭さを無くそうと試みたが、長年、このような調子で生徒や保護者と接していたのだろう、治ることはなかった。

それでもアラマキザカは、律儀に毎日受話器を握った。

営業成績は伸びない。

当たり前だった。

営業とは、瞬発力の勝負だ。

黒板の前で40分間話すのとは、わけが違う。

そんなある日。

アラマキザカの過去が漏れ聞こえてきた。

──教え子に手を出し、デキ婚。

結婚して責任を取ったため、辛うじて懲戒免職は免れたものの、左遷された先は、都立の底辺ヤンキー工業高校だった。

底辺。

誰も話を聞かない。
誰も黒板を見ない。
誰も授業に参加しない。

そんな教室で、彼はただ、淡々と数字や記号を板書し続ける日々を送ったようだ。

「クーロンの法則の、この式のぉ意味は、2つの電荷の間には、距離の二乗に反比例してぇ、比例定数 k を用いて…、わかるだろ?」

虚ろな声。

うつむいたままの生徒たち。

それが、アラマキザカの「過去の実態」だった。

憂さ晴らしに寄った、足立区西新井のパブ。

──そこが、転落のさらに転落の、始まりだった。

若いミャンマー人の女に、熱烈にアタックされた。

最初は戸惑っていたアラマキザカも、やがて、その異国の甘い誘惑に飲み込まれた。
──そして、家庭を捨てた。

かつてデキ婚した元教え子の妻。そして、彼女との間にできた18歳の娘を、アラマキザカは何の躊躇もなく、捨てた。

新しい女に溺れ、国籍目当ての外国人と再婚を果たしたアラマキザカ。

すべては、自分の寂しさを埋めるためだった。

──それが、さらなる地獄を呼ぶとは、そのときの彼は、まだ気づいていなかった。

ある日。

娘が、AV女優としてデビューした、という噂がカンゾウに流れた。

最初にそれを知ったとき、アラマキザカは、ただ呆然と、受話器を握りしめていた。

そして、意を決して、娘に会いに行った。

「やめろ! お願いだ……!」

必死の説得。

だが、娘は、氷のような目を向けた。

「何を今さら父親面してんの?」

彼女は、すでに、誰にも期待していなかった。
──とりわけ、父親には。

心理学には「内罰」という言葉がある。
他者に向かうはずの怒りや攻撃性を、自分自身を傷つけることで処理する心の働き。
彼女の冷たい視線の奥には、父への憎悪を自分の身を罰することで均衡させようとする、そうした“内罰”の影がちらついていた。

だが、アラマキザカは諦めなかった。

AV制作会社に直談判に行き、社長から突きつけられた条件は──
「あと3本の出演契約が残ってる。2000万払ったら、契約破棄してやるよ」

絶望的な額。

それでもアラマキザカは、方々に頭を下げ、借金を重ね、なんとか1000万円をかき集めた。

──残り1000万は、後払い。

社長は、しぶしぶ了承した。

娘は、出演契約からは解放された。

だが、彼女の心に刻まれた絶望は消えず、その後、吉原の街に消えていった。

──1000万円。

血のにじむような思いでかき集めた金を震える手で差し出し、アラマキザカは、娘をAV業界から救い出した。

だが、それは”救い”ではなかった。

娘は、父を赦さなかった。

──いや、そもそも、彼女にとってアラマキザカは、もはや”父”ではなかった。

怒り。
失望。
絶望。

彼女の心に宿ったそれらは、再び夜の街へと、彼女を押し流した。

心理学には「反転」という言葉もある。
本来なら父に向かうはずの怒りや憎悪を、彼女は自分の存在を貶める方向へと裏返していた。

──父を責めるのではなく、自らを傷つけ、自己を攻撃することで心の均衡を保つ。
その果てに選ばれたのは、さらなる荒涼の道だった。

今度は、吉原のソープ街へ──。

アラマキザカの娘は、自らを風呂に沈めていった。

アラマキザカには、まだ借金が残っていた。

あと1000万円。

それに、捨てた元妻と娘に対して、わずかでも贖罪の気持ちがあるなら、慰謝料も支払わなければならなかった。

だが──
カンゾウの営業で、彼にそれだけの金を稼ぐのは、ほとんど不可能だった。

営業力がない。
トークも響かない。
プライドだけが、無駄に高い。

現実は、容赦なかった。

そして、決意した。

「海、行くわ」

誰にともなく呟いたその声は、カンゾウ営業部屋の隅で、タバコの煙とともに消えていった。

マグロ漁船。

半年間、命を張れば、まとまった金が手に入る。

「死ぬかもしれんけどな……。けど、やるしかないだろ」

ある朝、アラマキザカは会社に顔を出し、無造作に言った。

「──やめるわ」

それだけ。

辞表も、挨拶も、なかった。

ただ、白髪交じりの頭を下げるでもなく、いつもの無表情で、彼はドアを閉めて出て行った。

アラマキザカの背中を見送りながら、彼の上長は無言で缶コーヒーをすすった。

誰かがボソッとつぶやいた。

「物理も、営業も、人生も……自由落下には抗えんかったな、あいつ」

そして、誰かが煙を吐きながら、こう付け加えた。

「抗力も浮力もないまま、重力だけに引かれて墜ちていったってことや……」

誰も、笑わなかった。

ただ、ひび割れた溜め息と、薄く濁った蛍光灯の光だけが、カンゾウの営業室に漂っていた。
 
第5話へ続く