彼は、最初から、少し浮いていた。
新巻坂太志(あらまきざかふとし)。
履歴書には「都立高校 元物理教師」とあった。
年齢は50代後半。
背筋はシャキッとしていたが、どこか「学校」という小さな世界でしか生きてこなかった、そんな匂いが漂っていた。
「電話営業? まぁ、教えるよりはラクそうですね!」
初日にそう言って、ニコニコしていたが、誰も、その言葉を信じていなかった。
(甘いな……ここは戦場や)
営業マンたちは心の中でつぶやいた。
◆
アラマキザカは、基本的に喋りが一本調子だった。
しかも語尾に説教くささが滲み出ている。
「…そう思わないかね?」
「…まあ、私はそう思うんだけどね。」
「…君もそう思うだろ?」
「…そういうことだよ。わかるだろ?」
──正直、しんどかった。
彼の授業を受けていた高校生たちもしんどかったに違いない。
電話の向こうで、生徒も親も無言になる。
他の営業マンたちも、耳を塞ぎたくなる話し方。
上長は基本的な営業トークのスクリプト(台本)を朗読させ、アラマキザカの語尾につける説教臭さを無くそうと試みたが、長年、このような調子で生徒や保護者と接していたのだろう、治ることはなかった。
それでもアラマキザカは、律儀に毎日受話器を握った。
◆
営業成績は伸びない。
当たり前だった。
営業とは、瞬発力の勝負だ。
黒板の前で40分間話すのとは、わけが違う。
そんなある日。
アラマキザカの過去が漏れ聞こえてきた。
──教え子に手を出し、デキ婚。
結婚して責任を取ったため、辛うじて懲戒免職は免れたものの、左遷された先は、都立の底辺ヤンキー工業高校だった。
底辺。
誰も話を聞かない。
誰も黒板を見ない。
誰も授業に参加しない。
そんな教室で、彼はただ、淡々と数字や記号を板書し続ける日々を送ったようだ。
「クーロンの法則の、この式のぉ意味は、2つの電荷の間には、距離の二乗に反比例してぇ、比例定数 k を用いて…、わかるだろ?」
虚ろな声。
うつむいたままの生徒たち。
それが、アラマキザカの「過去の実態」だった。
◆
憂さ晴らしに寄った、足立区西新井のパブ。
──そこが、転落のさらに転落の、始まりだった。
若いミャンマー人の女に、熱烈にアタックされた。
最初は戸惑っていたアラマキザカも、やがて、その異国の甘い誘惑に飲み込まれた。
──そして、家庭を捨てた。
かつてデキ婚した元教え子の妻。そして、彼女との間にできた18歳の娘を、アラマキザカは何の躊躇もなく、捨てた。
新しい女に溺れ、国籍目当ての外国人と再婚を果たしたアラマキザカ。
すべては、自分の寂しさを埋めるためだった。
──それが、さらなる地獄を呼ぶとは、そのときの彼は、まだ気づいていなかった。
◆
ある日。
娘が、AV女優としてデビューした、という噂がカンゾウに流れた。
最初にそれを知ったとき、アラマキザカは、ただ呆然と、受話器を握りしめていた。
そして、意を決して、娘に会いに行った。
「やめろ! お願いだ……!」
必死の説得。
だが、娘は、氷のような目を向けた。
「何を今さら父親面してんの?」
彼女は、すでに、誰にも期待していなかった。
──とりわけ、父親には。
心理学には「内罰」という言葉がある。
他者に向かうはずの怒りや攻撃性を、自分自身を傷つけることで処理する心の働き。
彼女の冷たい視線の奥には、父への憎悪を自分の身を罰することで均衡させようとする、そうした“内罰”の影がちらついていた。
◆
だが、アラマキザカは諦めなかった。
AV制作会社に直談判に行き、社長から突きつけられた条件は──
「あと3本の出演契約が残ってる。2000万払ったら、契約破棄してやるよ」
絶望的な額。
それでもアラマキザカは、方々に頭を下げ、借金を重ね、なんとか1000万円をかき集めた。
──残り1000万は、後払い。
社長は、しぶしぶ了承した。
娘は、出演契約からは解放された。
だが、彼女の心に刻まれた絶望は消えず、その後、吉原の街に消えていった。
──1000万円。
血のにじむような思いでかき集めた金を震える手で差し出し、アラマキザカは、娘をAV業界から救い出した。
だが、それは”救い”ではなかった。
娘は、父を赦さなかった。
──いや、そもそも、彼女にとってアラマキザカは、もはや”父”ではなかった。
怒り。
失望。
絶望。
彼女の心に宿ったそれらは、再び夜の街へと、彼女を押し流した。
心理学には「反転」という言葉もある。
本来なら父に向かうはずの怒りや憎悪を、彼女は自分の存在を貶める方向へと裏返していた。
──父を責めるのではなく、自らを傷つけ、自己を攻撃することで心の均衡を保つ。
その果てに選ばれたのは、さらなる荒涼の道だった。
今度は、吉原のソープ街へ──。
アラマキザカの娘は、自らを風呂に沈めていった。
◆
アラマキザカには、まだ借金が残っていた。
あと1000万円。
それに、捨てた元妻と娘に対して、わずかでも贖罪の気持ちがあるなら、慰謝料も支払わなければならなかった。
だが──
カンゾウの営業で、彼にそれだけの金を稼ぐのは、ほとんど不可能だった。
営業力がない。
トークも響かない。
プライドだけが、無駄に高い。
現実は、容赦なかった。
◆
そして、決意した。
「海、行くわ」
誰にともなく呟いたその声は、カンゾウ営業部屋の隅で、タバコの煙とともに消えていった。
マグロ漁船。
半年間、命を張れば、まとまった金が手に入る。
「死ぬかもしれんけどな……。けど、やるしかないだろ」
ある朝、アラマキザカは会社に顔を出し、無造作に言った。
「──やめるわ」
それだけ。
辞表も、挨拶も、なかった。
ただ、白髪交じりの頭を下げるでもなく、いつもの無表情で、彼はドアを閉めて出て行った。
◆
アラマキザカの背中を見送りながら、彼の上長は無言で缶コーヒーをすすった。
誰かがボソッとつぶやいた。
「物理も、営業も、人生も……自由落下には抗えんかったな、あいつ」
そして、誰かが煙を吐きながら、こう付け加えた。
「抗力も浮力もないまま、重力だけに引かれて墜ちていったってことや……」
誰も、笑わなかった。
ただ、ひび割れた溜め息と、薄く濁った蛍光灯の光だけが、カンゾウの営業室に漂っていた。
第5話へ続く