ここに、ひとりの男がいる。
年齢、実は70オーバー。
だが、白髪は染め上げられ、声にはやたらとハリがある。
白ワイシャツにネクタイ、その上にウインドブレーカーをいつも着ている。
電気屋か工務店の社長のようでもある。
電話口では声を張った高めのトーンで喋るため、誰も彼を本当の年齢だとは思わない。
せいぜい──60代前半くらいだろう、と。
彼の名は、大和田和夫(おおわだかずお)。
かつて、バブル期に荒稼ぎした教材販売会社の、元・社長だ。
「教材一発、80万! 二発で新車や!」
今でもそう語る彼は、かつての栄光にしがみつくように、今日も受話器を握っている。
◆
カンゾウ営業部の壁には、「呼び込みグラフ」が掲示されている。
今月、誰がどれだけ客を「呼んだ」か。
その数字が、日々上書きされる。
注文を取れないどころか、来訪すらさせられない営業マンにとっては公開処刑のグラフとしても機能している。
契約を取れなければ意味はない。
だが、それ以前に、まずは来訪させなければならない。
電話で呼び、訪れた客に営業をかけて契約を取る。
この2段階ステップのうちの最初のステップが「呼び」。
ある意味、「呼んだ数」が、カンゾウ営業マンの一つの「戦績」でもあった。
そのグラフで、常にトップを独走していたのが、このオオワダだった。
◆
だが、次第に違和感を抱く者が出てきた。
「おい、あの親子、先月も来てなかったか?」
「え? マジで?」
不審に思った若手営業マンが、こっそり記録を辿ってみた。
案の定だった。
オオワダは「成約見込み客」を呼んでいるわけではなかった。
タダでプリントが欲しいだけの生徒や親に、電話をかけ続け、「そろそろ新しい教材できたで」「また顔見せにおいでな」と甘い誘いをして、カンゾウに呼び出しているだけだった。
営業をかけても断られるに決まっている。入塾する可能性がゼロの生徒や親ばかりを「呼んで」いた。
しかし、「呼べ」ば、「呼び込みグラフ」のメモリが一つ増える。
だからオオワダは、入塾する気のない生徒を定期的に呼び、応接室で、商談のフリをしながら、笑いながら世間話をし、最後にプリントを渡して、にこやかに送り出すことを続けていた。
何かが決まるわけでも、何かが変わるわけでもない。
ただ、「呼び込み件数」という数字だけが、カンゾウ営業部のホワイトボードに積み上がっていった。
。
だが、呼んでも契約を取らねば、会社にも入金がなく、オオワダにも報酬が出ない。
しかし、オオワダにとっては、金にはならぬが、「俺はお前らよりも客をたくさん呼んでいるんだぞ」というプライドは保たれる。
◆
契約は、2ヶ月に一件取れれば上出来だった。
それでも彼は、日々胸を張って出社してきた。
声だけは、やたらと元気だった。
「営業いうのは、なあ……信用や」
「顔をつないどきゃ、いつか“芽”が出るんや」
そんな言葉を、誰に言うでもなく、つぶやきながら。
◆
そして今日もまた、オオワダは、営業室で電話をかけている。
元気な声で。
生き生きと。
過去の栄光を取り戻すかのように。
──それが、”虚勢”だと、誰もが知っていた。
──それが、”空振り”だと、本人もわかっていた。
それでも、プライドを守るために、今日も「呼んだ数」だけは、最前線を走り続ける。
金にはならなくても「来訪客ゼロ」のボードは彼のプライドが許さない。
だから、「自分の営業トークで呼んでいるふり」をしつづける。
誰もそのことを指摘しない。
誰も、彼をあからさまに笑わない。
なぜなら、オオワダがそこに立っているだけで、もう十分すぎるほど、悲しかったからだ。
「オーダーが成立する見込みのない客」を呼ぶ爺さん。
いつしか、オオワダは「ゼロオーダーじじい」や「エアオーダー爺」と陰で呼ばれるようになっていた。
◆
夕方、呼び出した親子に、またプリントを手渡しながら、大和田は晴れやかな顔で言った。
「これでな、また次、がんばれるやろ?」
答えは、なかった。
親も、生徒も、軽く頭を下げ、帰っていった。
小さなカンゾウの営業室。
ひとり、年齢不詳の男が立ち尽くす。
そして、受話器を取り、次の番号を押した。
──ああ、まだ、オレにも「次」があるかもしれへん。
そんな夢を、手放せずに。
第10話へ続く