第3話からのつづき
「マサヒトさん、あなたは──Wi-Fiを、信じていますか?」
フクロウのアバターは、相変わらず無表情だった。
でも、その問いかけには、やわらかい棘のようなものがあった。
「……え? まあ……信じてるっていうか、ありますよね、普通に。だって、こうして今、僕たちもオンラインで話せてるし」
「ええ、そうですね。ですが、Wi-Fiというものが“この空間に確実に存在している”と、あなたが確信できる根拠は、どこにありますか?」
「……通信できてるから……ですかね」
「つまり、“つながっている”という結果があるから、“あるはずだ”と、あなたは判断しているわけですね?」
「……そう、ですね」
「でも、Wi-Fiは“目に見えません”。あなたの主張は、“目に見えるものしか信じない”ということでしたよね」
マサヒトは、返す言葉を少し探すように黙った。
「Wi-Fiを信じているのは、“つながっている”という実感があるからです。私は、その信じ方を否定しません。ただ、ひとつだけ申し上げたいのは、目に見えないもののすべてがインチキではない、ということです」
W.Naviの声は、どこまでも穏やかだった。
「誤解しないでください。私は、その先生の“波動”や“月のエネルギー”を肯定するわけではありません。ただ、“論破したい”という感情には、注意が必要です」
「……どういうことですか?」
「論破という行為は、“理解不能なものを、自分の言葉で上書きしたい”という衝動から来ることがあります。でも、それはつまり、“自分が理解できないものは、存在してほしくない”という、ある種の願望です」
「……」
「そうした願望が極端に走ると、人は“異なる価値観を排除する”ようになります。歴史的には、ユダヤ人迫害や、宗教・民族粛清の根底にも、“理解できないものを消す”という衝動があったのです」
「……それって、そんな大げさな……」
「大げさに聞こえるかもしれません。でも、“異なるものを許せない”という感情は、人間にとってとても身近なものです。あなたが“論破したい”と思った瞬間、すでに“相手を変えたい”という欲望が生まれています」
「……じゃあ、僕は、黙って見過ごすべきなんですか?」
「見過ごす、というより、距離を取るんです」
「距離、ですか」
「はい。違和感を持ったとき、人はふたつの選択を取ります。“なんとかしようとする”か、“距離を置く”か。前者は、たいていエネルギーを浪費します。後者は、自分のリソースを守るという意味で、知的な戦略です」
「でも、僕、間違ってると思ったことを、そのままにしておけないんです」
「それは、とても真面目な姿勢です。でも、人は人のことをコントロールできないという事実も、同じくらい大事にしてほしいと思います」
W.Naviの声に、ゆっくりとした抑揚が加わる。
「プロセスが怪しくても、結果が出ている人がいるのなら…。あなたにできるのは、それを“そういう現象”として受け止めることです。“気に入らない”を、“論破したい”に変換してしまうと、いつかあなた自身が疲れてしまいます」
「……じゃあ、放っておけってことですか」
「はい。距離を取るのは、逃げではありません。“力を残す”という戦略です。」
ひと呼吸置いてから、W.Naviは続けた。
「ただし、“放っておく”とは、“負ける”ことではありません。それは、“関わらない自由”を選ぶという、あなたの意思です」
マサヒトは、長いこと無言だった。
そして、ようやくふっと肩の力が抜ける音が聞こえた。
「……たしかに、だいぶ時間とられてたかもしれません、僕。“あれにどう反論するか”ってことばっかり考えてて。自分の勉強より、そっちのことにエネルギー使ってました」
「あなたは十分、論理的に考えられる方です。だからこそ、“争わない論理”も持てるはずです」
「……はい。なんか、楽になりました。ありがとうございます」
「また、何かありましたら」
Zoomの通話が終了した。
*
湯の沸く音が、部屋のなかに静かに立ち上がっていく。
ワナミは、手元のケトルをゆっくりと傾け、ドリッパーの上に湯を注いだ。
今日の豆は少し深煎り。ふくらむ層の香りが、ほのかに漂ってくる。
人を変えようとするより、自分を平静に保つ方が、よほど難しい。
けれど、その方が、ずっと美しい。
彼はカップを持ち上げ、一口、含んだ。
苦味の奥に、ようやく冷めかけた熱さが残っていた。
カップを置く。静かに、そして丁寧に。
第4話へつづく