Zoomの接続が完了するまでの一瞬、モニターには自分の顔が映った。
一瞬だけ、睨むような目をしていたのに気づいて、水原創一(みずはらそういち)は小さく息を吐いた。
その直後、画面の向こうに現れたのは──フクロウのアバター。
名前の表示は “W.Navi”。
話に聞いていたとおり、顔出しはないらしい。
「……ミズハラです」
短く名乗ると、相手はすぐに応じた。
「はじめまして。どうぞ、お話しください」
丁寧で静かな声だった。
話し出すのに、邪魔にならない種類の声。
「何を話せばいいのか、実は自分でもよくわからないんですが……」
男は一呼吸おいてから、こう言った。
「とにかく、“書けなくなった”んです」
モニターの中のフクロウは何も言わない。
でも、“言葉を急かさない空気”が、画面越しに漂っていた。
「……僕は小説を書いている人間です。たぶん、名前は伏せてもわかる人にはわかると思う。10年以上前に賞をもらって、そこから映像化された作品がいくつかあって──。おかげさまで、出版の世界では“売れている方”に入る人間です。言いたいことも言えるようになった。気が乗らない仕事も断れるようになった。ありがたいことに生活も安定していて、母の介護も、十分な施設に入れるだけの収入もある。そういう意味では、もう何も不満はないんです」
ミズハラは、言葉を切った。
一拍、置いて続ける。
「でも──今、1行も書けないんです」
「……」
「頭の中に“読者の声”が浮かんでくるんです。“先生のあの作品、また読みたいです”とか、“先生らしさが光ってますね”とか。それが、まるで編集者の声や、SNSの投稿みたいに、勝手に湧いてくる。だから、“最初の1行”が打てない。何を書いても、“これは読者が求めてるものなのか?”って、自問する癖が抜けないんです」
ひと呼吸おいて、ミズハラは続ける。
「映像化されるのも、正直つらいです」
ミズハラは苦笑した。
「ドラマになったり、映画になったり、ありがたいんですけど……。取り上げられるのは、片手間で書いた、いわば“ネタもの”ばかりで。本当に大事にしてる文学作品は、メディアに見向きもされない」
それは、誇らしさではなく、自嘲に近い笑みだった。
「書いたものが誰かに読まれるって、もともとはすごく幸福なことだったはずなのに──。最近は、“何が売れるか”を先に考えてしまう。そうやって書いたものがまた売れて、“さすが先生ですね”って褒められて、──それで、僕はどこにいるんでしょうね?」
モニター越しに視線を泳がせる。
視線の先には誰もいないのに、目を逸らしたくなっていた。
「書くって、こんなに滑稽な行為だったんでしょうか。……いや、滑稽なのは、僕かもしれない」
沈黙。
画面のフクロウはじっとこちらを見ていた。
何も言わないのに、不思議と“考えてくれている”と感じられた。
「たしかに生活は助かってます。売れたおかげで、高級な介護施設にも母を入れることができた。家もリフォームした。好きな本を好きなだけ買える。でも、そんなことのために、僕は書き始めたわけじゃないんです」
静かに吐かれた言葉は、どこか“祈り”のようでもあった。
「書きたいものを、もう一度書けるようになるには……僕は、どうすればいいんでしょう?」
画面のフクロウは、やはり口を動かさない。
けれど、その目が、何かをじっと見つめているように見えた。
「……すみません、こんな話。誰にもしたことなかったです」
「よく、伝わりました」
フクロウの声は、穏やかだった。
「では、ひとつだけ伺ってもよろしいでしょうか」
「……なんでしょう」
「あなたは、“好き勝手にやってもいい立場”にいると、自覚していますか?」
ミズハラは、ほんの一瞬、息を止めた。
その声は穏やかだったが、思いも寄らぬ扉を突然開け放つ響きを持っていた。
後編につづく