第8話:書けなくなった小説家(後編)

前編からのつづき

「あなたは、“好き勝手にやってもいい立場”にいると、自覚していますか?」

フクロウの声は変わらず穏やかだった。
その口調は、責めるでも急かすでもなく、淡々と問いを投げかけているだけに思えた。

ミズハラは答えなかった。
いや、答えられなかった。

言われてみれば、と思いかけた瞬間に、自分の中で無数の“でも”が反射的に湧き上がったからだ。

「……いや、まあ……確かに、生活は困ってませんけど。ただ、そんな簡単に“好きに書いていい”って言われても……」

「“書いていい”じゃありません」

W.Naviの声は、ほんの少しだけ低くなった。

「“書ける立場”にいる、ということです。それは、多くの表現者が“いつか辿り着きたい”と思っている地点でもあります」

ミズハラは、画面越しに言葉を押し返そうとしたが、それはできなかった。

“力がある”という言葉が、心のどこかに刺さっていたからだ。

「ミズハラさん。ロン・カーターというジャズベーシストをご存じですか?」

「ええ、名前くらいは。マイルスの……」

「彼はもともと、クラシックのチェロ奏者を目指していたそうです。でも、肌の色を理由に、オーケストラの道を閉ざされた。それでジャズに転向して、力をつけて第一人者になってから、バッハのアルバムを出したんです」

フクロウは続ける。

「林修先生もそうですね。“今でしょ”で売れて、テレビに引っ張りだこになったあと、『すし、うなぎ、てんぷら』という趣味全開の食の本を出しています。たぶん、売上はそれほどでもなかったと思います。でも、“出すことが許される立場”になったから、出せたんです」

ミズハラは黙って聞いていた。

どこか、自分が語ったことよりも、自分の本音が語られているように感じていた。

「あなたも、そろそろ“立場を守るための遠慮”から抜け出していい頃合いではありませんか?」

「……」

「秀吉のように。」

「秀吉、ですか。あの、豊臣秀吉…」

「はい、正確には、まだ羽柴秀吉でしたが。織田信長に仕えていた頃の彼は、常にへりくだっていたように見えますが、果たして本心はどうだったのか。主君を討った明智光秀を倒したのは、正義感からか、それとも……。どこかで、“このときを待っていた”だけかもしれません。それが証拠に、信長の遺族たちには表向きは後継者として担ぎ上げながらも、実際には権力掌握の道具として扱い、やがて冷遇していった、そして権力を握れば握るほど、暴君化していったという話もありますからね」

胸の奥で、何かがひっそりと軋んだ。

「あなたもそうです。これまで、“大衆が口にしやすい甘い菓子”を作り続けてきた職人のようなものでした。でも、もう売れる力は十分に証明されました。世間に応えるだけのフェーズは、もう終わっています」

W.Naviは、一拍置いて、言い切った。

「そろそろ“毒”を盛っても、いいんじゃないですか?」

ミズハラは、息を呑んだ。

毒を盛る?

誰にでも言えるようで、誰にも言えない言葉だった。

「……でも、どうしても、引っかかるんです」

ミズハラは口を開いた。

「売れたら売れたで、“金の亡者”って言われる。僕は別に、お金のために書いてたわけじゃないんです。たまたま売れたから、お金が入ってきただけで……。もちろん、それで生活が助かった部分もあるし、母を良い施設に入れられたのはありがたい。でも、どこかで“魂を売った”って思われてるんじゃないかって、……今でも少し、後ろめたいんです」

画面のなかのフクロウから、“理解された”という手応えが、たしかに伝わってきた。

「……そんな私だって、今現在、好き勝手な生活をしています」

W.Naviは、ふいに、自分のことを語りはじめた。

「満員電車には乗りません。数字のノルマに追われることもなく、雨や雪の日に無理して外に出ることもありません。上司も部下もいませんので、叱責もパワハラもなく、派閥もない。飲み会の付き合いもなく、有休の申請も不要。理不尽な会議や組織のルールに悩まされることもありません。気が進まない仕事は断りますし、誰にも断らずに一日中休む日もあります。誰の目も気にせず、静かに暮らしています」

W.Naviは、そこで一度、言葉を止めた。

ミズハラは、ただ黙って聞いていた。

「世の中の多くの人は、その“自由”を手に入れるために、今日も働いています。でも、それを実現できる人は、ごくわずかです。あなたは、その“わずか”に入っている人なのではないでしょうか?」

ミズハラの胸の奥で、何かがざわめいた。

「ワガママの先にある自由を、いつまでも眺めている必要はありません。その椅子には、あなたがもう座っていいんです。」

「……座って、いいんですか」

その問いは、呟きというよりも、自分自身に向けられた確認のようだった。

「ええ。その権利を、遠慮なく行使すべき時が来たのではないでしょうか」

ミズハラは、長い沈黙のあと、小さく笑った。
ようやく、ひとつの重さが降りた気がした。

「……そうですね。言われてみれば、“書いてもいい立場”に、もういるんですね」

「はい。好き勝手に書くことが、今のあなたにとっての“責任”かもしれません」

通話が、終了した。
 

お湯が湧く音が、静かに部屋を満たしていた。

和波知良(わなみかずよし)は、ゆっくりとドリップの準備をする。

今夜は、少し濃いめに淹れよう。
オールドファッションのドーナツをひとつ、皿に置く。
甘さと重さが同居する、地味な菓子だ。

だが、これでいい。

一口かじって、苦いコーヒーで流す。
その余韻が、今日という一日を締めくくってくれる。

第9話へつづく