第8話からのつづき
春。
カンゾウの指導室には、まだ微かに冷たい空気が漂っていた。
リョウスケは机に向かい、まっすぐに座っていた。
かつての彼なら、どこか上の空で、心ここにあらずという雰囲気をまとっていたかもしれない。
だが今は違った。
──しっかり話を聞こう。
──今度こそ、自分を変えよう。
そんな覚悟が、彼の背筋から伝わってきた。
カデノコウジは、デスクの上の資料をめくりながら、リョウスケに向かって穏やかに語りかけた。
「白井君、前は理Ⅱ志望だったよね?」
「はい」
「でも──今回は、少し作戦を変えようと思うんだ」
リョウスケは、カデノコウジをまっすぐ見た。
「理Ⅰに志望変更してみないか?」
一瞬、リョウスケの眉が動いた。
カデノコウジは、続けた。
「理Ⅰのほうが、募集人員が倍になる。単純に考えれば、理Ⅱよりも可能性は高くなる」
リョウスケは静かにうなずく。
だが、カデノコウジはそこからさらに、言葉を選びながら続けた。
「もちろん、必ずしも君に合っているとは言い難い」
リョウスケの目が、少しだけ見開かれる。
「理Ⅰは、どちらかといえば化学系色が強い。君は物理が好きだったよね? 入学後も、化学系よりは物理系の勉強を中心にやりたいと、前に話していたのを覚えてる」
カデノコウジは、リョウスケを真っ直ぐに見つめた。
「だから、無理にとは言わない。最終的に決めるのは、君自身だ」
しばらくの沈黙。
リョウスケは、指先を軽く握りしめた。
そして──
「わかりました。先生の言うとおりにします!」
即答だった。
かつてのような、ためらいや、疑いの色はなかった。
カデノコウジは微笑んだ。
「ありがとう。……じゃあ、次に行こうか」
彼は机の引き出しから、一冊のスケジュール帳を取り出す。
「君は、勉強にムラがあった。好きな単元はものすごくできるけど、苦手な単元は、現役時代には手をつけようともしなかった」
リョウスケは、バツが悪そうに少しだけ顔を伏せた。
カデノコウジは、そんな彼に優しく言った。
「国立は、特に東大は、一次試験の段階で、どの単元もミスなく確実に点を取らなきゃいけない。苦手なところを残しておく余裕なんてないんだ」
カデノコウジは、手元のスケジュール帳をパタンと開き、そこにびっしりと書き込まれた学習計画表を見せた。
「これが、君専用の学習計画だ。僕の指示通り、これに従って進めてほしい。できるかな?」
リョウスケは、真剣な表情でうなずいた。
「わかりました。先生の言うとおりにします!」
迷いのない声だった。
カデノコウジの胸に、ふっと熱いものがこみ上げた。
(これは……いけるかもしれない)
リョウスケの顔には、以前にはなかった素直さが、確かにあった。
勉強ができるかできないか、志望校に合格するかしないか。
もちろん、地頭や勉強量も関係はある。
──けれど。
それ以前に、もっとも大切なものがある。
それは、「素直さ」だ。
カデノコウジは、そう信じていた。
そして今、リョウスケには、それがあった。
(うん……合格できそうな手応え、あり!)
(今年こそ……いや、必ず合格させてみせる!)
カデノコウジは、心の中で拳を握った。
ところが…。
春の風が、窓の外を吹き抜けていった。
第10話へつづく