第9話:素直な心

第8話からのつづき

春。
カンゾウの指導室には、まだ微かに冷たい空気が漂っていた。

リョウスケは机に向かい、まっすぐに座っていた。

かつての彼なら、どこか上の空で、心ここにあらずという雰囲気をまとっていたかもしれない。

だが今は違った。

──しっかり話を聞こう。

──今度こそ、自分を変えよう。

そんな覚悟が、彼の背筋から伝わってきた。

カデノコウジは、デスクの上の資料をめくりながら、リョウスケに向かって穏やかに語りかけた。

「白井君、前は理Ⅱ志望だったよね?」

「はい」

「でも──今回は、少し作戦を変えようと思うんだ」

リョウスケは、カデノコウジをまっすぐ見た。

「理Ⅰに志望変更してみないか?」

一瞬、リョウスケの眉が動いた。

カデノコウジは、続けた。

「理Ⅰのほうが、募集人員が倍になる。単純に考えれば、理Ⅱよりも可能性は高くなる」

リョウスケは静かにうなずく。

だが、カデノコウジはそこからさらに、言葉を選びながら続けた。

「もちろん、必ずしも君に合っているとは言い難い」

リョウスケの目が、少しだけ見開かれる。

「理Ⅰは、どちらかといえば化学系色が強い。君は物理が好きだったよね? 入学後も、化学系よりは物理系の勉強を中心にやりたいと、前に話していたのを覚えてる」

カデノコウジは、リョウスケを真っ直ぐに見つめた。

「だから、無理にとは言わない。最終的に決めるのは、君自身だ」

しばらくの沈黙。

リョウスケは、指先を軽く握りしめた。

そして──

「わかりました。先生の言うとおりにします!」

即答だった。

かつてのような、ためらいや、疑いの色はなかった。

カデノコウジは微笑んだ。

「ありがとう。……じゃあ、次に行こうか」

彼は机の引き出しから、一冊のスケジュール帳を取り出す。

「君は、勉強にムラがあった。好きな単元はものすごくできるけど、苦手な単元は、現役時代には手をつけようともしなかった」

リョウスケは、バツが悪そうに少しだけ顔を伏せた。

カデノコウジは、そんな彼に優しく言った。

「国立は、特に東大は、一次試験の段階で、どの単元もミスなく確実に点を取らなきゃいけない。苦手なところを残しておく余裕なんてないんだ」

カデノコウジは、手元のスケジュール帳をパタンと開き、そこにびっしりと書き込まれた学習計画表を見せた。

「これが、君専用の学習計画だ。僕の指示通り、これに従って進めてほしい。できるかな?」

リョウスケは、真剣な表情でうなずいた。

「わかりました。先生の言うとおりにします!」

迷いのない声だった。

カデノコウジの胸に、ふっと熱いものがこみ上げた。

(これは……いけるかもしれない)

リョウスケの顔には、以前にはなかった素直さが、確かにあった。

勉強ができるかできないか、志望校に合格するかしないか。

もちろん、地頭や勉強量も関係はある。

──けれど。

それ以前に、もっとも大切なものがある。

それは、「素直さ」だ。

カデノコウジは、そう信じていた。

そして今、リョウスケには、それがあった。

(うん……合格できそうな手応え、あり!)

(今年こそ……いや、必ず合格させてみせる!)

カデノコウジは、心の中で拳を握った。
 
ところが…。

春の風が、窓の外を吹き抜けていった。

第10話へつづく