第10話:逃した魚

第9話からのつづき

──渋谷・STX、鳳凰の間。

金ピカのフェニックス像が鎮座する、特別室「フェニックス・ルーム」。
そのテーブルに、サギヤタカシ塾長が座っていた。

金髪オールバックを指でいじりながら、スーツの裾を何度もパシパシと払い、やたらと落ち着かない仕草を繰り返している。

「おい、パッチギ!」

「ニッポリです!」

小柄で笑顔の絶えない男、ニッポリ研二が即座に返事をした。

サギヤは、指で机をカンカンと鳴らしながら言った。

「白井リョウスケ、不合格だったそうだな」

ニッポリは苦笑いを浮かべた。

「す、すいません、私のパワーが及ばず……」

サギヤは目を細め、しばらく無言でニッポリをにらんだ。

「……それはいいんだ」

肩の力を抜くと見せかけて、手元の指先はスーツの裾をなおパシパシといじっている。
不機嫌なのが丸わかりだった。

「だが、問題はそこからだ。なぜうちに残らなかったのだ」

ニッポリは口ごもる。

「はぁ、それは……」

その時、別の講師が口を挟んだ。

「カンゾウで、もう一年頑張ると言ってやめて行きましたよ」

サギヤの顔がぐにゃりとゆがむ。

「何? カンゾウ?」

スーツの裾を叩く手が止まり、代わりに机をトントン叩き始める。

「関東学力増進会です、そこに戻ると…」

講師が続けた。

いきりたつサギヤ。

「肝臓とはいい度胸だ。酒飲みに喧嘩売ってるのか、その塾は……!」

横から、また別のスタッフが恐る恐る言った。

「なんでも、塾長はシマダタクミっていう男で……なかなかやり手な経営者らしいと聞いてます」

サギヤの表情が、さらに曇った。

やり手。

その言葉に、ピクリと眉が動く。

「シマダだと? タクミだと?」

金髪オールバックをかき上げながら、口元を歪める。

「ダマシがタクミとは……こりゃ笑えるな」

自分のことは棚に上げて、鼻で笑った。

「おい、トッポギ!」

「ニッポリです!」

「なんとかならんのか? 今からでも遅くない。『STXでもう一回頑張らないか』って取り戻せんのか?」

机を指でカンカンと叩きながら、サギヤはニッポリに詰め寄る。

「年間授業料を半額にしてもいいぞってアプローチできんのか。もちろん、その分、特別合宿と直前特別講習でたんまり金をいただくがな」

ニッポリは、また苦笑いした。

「いやぁ、すいません。実は先日、彼に連絡してみたんですが……ダメでした」

サギヤの手がピタリと止まる。

ニッポリは肩をすぼめながら続けた。

「『連絡ありがとうございます。僕は、今、カンゾウで人生の中で一番勉強しています』って返事が来たんですよ……」

室内に、重たい沈黙が落ちた。
サギヤは深く、長いため息をついた。

「……逃した魚は大きいってやつか」

金ピカのフェニックス像の目が、皮肉に光っているように見えた。

一方、高田馬場・カンゾウ。
季節は進み、5月、6月。

白井リョウスケは、カデノコウジの立てたカリキュラムに従い、黙々と勉強を続けていた。

毎日、同じ時間に登校し、同じ時間に自習室へ向かい、黙々と問題集を解き続ける。
わからないところは、すぐに質問する。
以前は考えられなかったほど、堅実な学習態度だった。

カデノコウジは、そんなリョウスケの姿を、時折、指導室の窓から目を細めて見守った。

(うん、順調だ……)

心の中で、確かな手応えを感じる。

──しかし。

この穏やかな日々に、黒い影が忍び寄っていることを、まだ誰も知らなかった。

第11話へつづく