第10話からのつづき
──高田馬場・カンゾウ、塾長室。
梅雨の気配が忍び寄るある日の午後。
塾長・島田タクミは、いつものように机に足を投げ出し、紙巻きタバコをふかしていた。
「おう、スタッフ一同!」
部屋に集められたスタッフたちに、タクミは上機嫌に言い放った。
「今年の夏期講習やがのお、ぎょうさん受けさせろや!ついでの合宿もや!」
スタッフの間に、微かなざわめきが走る。
「え? 白井くんにも……この高校1、2年生向けの基礎講座とかもですか?」
一人が、おそるおそる口を開いた。
タクミはタバコをくわえたまま、にやりと笑った。
「ふっふっふ、オレに秘策がある」
──でたぁ、塾長の秘策だぁ。
スタッフたちは一斉に顔を伏せた。
(ヤバい、また始まった……)
数日後。
塾長室に、血相を変えたカデノコウジが飛び込んできた。
「島田塾長!」
「おう、カムチャッカコウジ君、待っとったで!」
カデノコウジは、手に持った申込書を震わせながら、怒りをあらわにした。
「なんですか、この無茶苦茶な申込書は!!」
タクミはタバコをふかしながら、椅子にふんぞり返る。
「おお、それか。オレがお前の代わりに保護者面談しておいてやったで」
「どういうことですか!?」
カデノコウジの額に青筋が立つ。
「先週の火曜日、お前休みやったやろ? だからオレが白井の母ちゃん呼んで、ピッシリ面談しておいたんや。テレビで見るより、ベッピンやったぞ~」
島田はふふんと笑い、タバコの煙を鼻から吐いた。
カデノコウジは申込書をバシバシ叩きながら訴えた。
「どうして僕も同席させてくれなかったんですか!? それに、この講座の数、無茶苦茶じゃないですか!」
タクミは涼しい顔で言った。
「そうか? 白井の母ちゃん、喜んどったで。『どうか息子を今年こそ東大に入れてください』ってな。その誠意の証がこれや!」
タクミは申込書をドンと机に叩きつけた。
「講習代、合宿代、まとめてビシッと──150万!」
「……でもですねぇ、塾長!!」
カデノコウジは必死だった。
「なんで今の彼に、『高校1・2年向け基礎数学』とか『ベーシック英文法講座』とか、それに『立教・中央大学文学部対策漢文講座』まで取らせる必要があるんですか!?」
タクミはスーツの裾を払うように手をひらひらさせながら、にやりと笑った。
「おう、お前!」
机をカンカンカンと指で叩きながら、タクミは詰め寄った。
「オレ様、塾長おん自らが教壇に立たんとする漢文講座が、気に食わん言うんか?」
「い、いや、そういうことじゃなくて……!」
胃がキリキリと痛み出すカデノコウジ。
「それに河口湖合宿だって! 今年は私立の文系志望者対象の現代文と古文中心の合宿じゃないですか!」
タクミはまた机をカンカン叩きながら言った。
「おう、このカンゾウの塾長・島田タクミおん自らが引率せんとする合宿イベントに水を差すっちゅうことやな?」
「ち、違います! 違いますけど……!」
胃がチクチクシクシクと痛み出すカデノコウジ。
だがタクミは容赦しない。
「おう、カマドコウロギ!」
「カデノコウジですっ!」
「どっちも似たようなもんじゃ!」
タクミはニヤニヤしながら言い放った。
「お前、オレ様おん自らが考えた、白井リョウスケ学力向上プランを敵にまわすっちゅうわけやな!?」
「そ、そんなつもりじゃ……!」
「上等じゃ!受けて立ったるわ!」
タクミは大声を張り上げ、満足げにニヤリと笑った。
カデノコウジは、拳を握りしめ、必死にこらえた。
「でも……合宿だの、高校生向けの基礎講座に出席させたら……。僕が立てた夏の計画の意味がなくなっちゃうじゃないですか……!」
タクミはタバコを指先で弾きながら、にやりと笑った。
「だったら、今から白井家に行って母親を説得してこいや」
「えっ……」
「今回の夏の計画は、カデノコウジ先生が徹夜で立てたプランです、って言っといたわ」
タクミは満足そうに続けた。
「母親も、白井のガキも、さすがカデノコウジ先生!って、お前を信頼しきっとったぞ。今さら、『間違いでした』って言うてみいや」
「……」
「お前の信用ガタ落ちやで? 地の底、地獄の底まで落ちるわ」
カデノコウジは、黙って拳を握りしめた。
胃の奥から、痛みが広がっていく。
どうにもならなかった。
──そう、すべては、もう、仕組まれていたのだ。
第12話へつづく