第15話:従順なる諦観

──渋谷・STX。
 
春。
新年度。

だが、白井リョウスケにとって、それは何の意味も持たなかった。

彼は、再びこのビルに足を踏み入れた。

カンゾウでの敗北。
カデノコウジ先生との、歯切れの悪い別れ。

(……もう、どうでもいい)

そう思いながらも、言われた時間に来て、言われた通りに授業を受け、言われたページをやり、言われた問題を解く。

心の奥は空っぽだった。
でも、外側だけは驚くほど「模範的な生徒」だった。

カンゾウで身につけた「従順さ」。
今では、それが彼の生きる術だった。
 
STXは、にわかに活気づいていた。

理由は一つ。

ニッポリ研二のメルマガが、ほんの少しバズっていたのだ。
毎日5,000字超のテキストで配信されるメルマガ。

3年間、一日も欠かさず書き続けた“脳科学・スピリチュアル・自己啓発のごった煮メルマガ”。

最近は登録者数もじゃっかん増え、SNSでも「成績低めで意識高めな受験生」の「都合の良い言い訳」に引用されるようになってきている。

「東大合格のためのミラクル学習法? 実は存在するのです──」

「意識の回路を開き、君の潜在能力を開花させる!」

「不死鳥の“東大メンタリング鳳凰メソッド”がここに。」

「STX講師・ニッポリがGMUで得た知見をもとに──」

GMU?

アニメが好きだと授業中に公言していたニッポリのこと、GMUとは、「ガンダム、マクロス、宇宙戦艦ヤマト」の略かと思いきや、どうやら、ジョージメイソン大学のことらしい。
ニッポリは学生時代、GMUという大学に留学していたそうだ…。

(はあ、そうなんですか…)

もはやリョウスケにとっては、どうでもいいことだった。

しかし、このニッポリが連日配信しているメルマガは、読み終わったあと、「結局、何が言いたいの?」となる内容だが、妙な熱量だけは確実にある。

そして今年、このメルマガに釣られてやってきた“信者系生徒”が、妙に多かった。

フェニックスエナジー、記憶の水脈、月の引力。
誰かのノートには、「自己変容の鍵」などと書かれていた。

教室は、ちょっとした教団のような空気になりつつあった。

「キミたちの脳は、いま……羽ばたく!」
 
今日も、ニッポリ研二は授業で叫んでいた。
黒板の横には、フェニックスのイラスト。

 「エネルギーは、“共鳴”です! GMU時代、僕の恩師に言われたんです──“記憶は空間の中で躍動する”って!」
 
「でね、帰国してSTXに来たとき……サギヤ塾長がこう言ったんですよ.
『塾生よ、フェニックスの如く甦れ!』と。──あの言葉が、刺さったんですよね」

一部の生徒が頷きながら熱心に耳を傾けている。

「運命……感じました。フェアファックスのGMUで学んだ自分が、この場所に来たことに……」

白井リョウスケは、静かにノートを取りながら、心の中でだけ、こうつぶやいた。

(……うん、まぁ、聞いてるふりしとくか)

彼は従順だった。
だが、もう何も信じていなかった。
奇跡も、逆転も、ましてや不死鳥の再生なんて。
自分が何かに変われるなんて──

そんな期待は、とうに燃え尽きていた。
ただ、今日も同じようにペンを走らせる。

沈黙の中で、ひたすら問題を解く。
従順に。
そして、諦観のままに。

STXの春。

それは、「スピ系」講師とその信者たちの狂騒とは裏腹に、リョウスケの心は、底の見えない空っぽの井戸のように、静まり返っていた。

投げ込まれる言葉も、響くことなく、ただ暗闇に吸い込まれていく。

ただ、空虚な時間だけが、重く、ゆっくりと、彼の傍らを流れ去っていった。

第16話へつづく