第17話:届かなかった場所

──二月。

その日は、朝からよく晴れていた。
空気は冷たく澄んでいて、街の喧騒もなぜか、遠く感じられた。

STX・自習室。
白井リョウスケは、最後の確認を終えたところだった。

英単語帳。
数IIIの標準問題集。
理科の過去問プリント。

ペンを置いた。
机の角に、静かに置かれた受験票に目をやる。

(……今年も、ここまで来た)

やることは、すべてやった。
言われたことも、全部こなした。
模試の判定は悪くなかった。

でも、なぜか胸の奥には、何も感じない静けさだけが広がっていた。

数日後。
東大・合格発表。

スマホを手にしていたが、検索をかける手は、妙に冷たかった。
掲示された番号群の中に、自分の受験番号は、なかった。

(……また、ダメだったか)

それだけのことだった。
怒りも、悔しさも、もう湧いてこなかった。

すぐにスマホを閉じ、母親のLINEに「ダメだった」とだけ送った。

既読がついてから十数分後、母から短い返信が返ってきた。

「慶應も早稲田もあるんだから、胸を張りなさい。あなたは立派よ」

そのあと、妹からも来た。

「兄ちゃん、すごいじゃん!どっち行くの?」

父からは、「お疲れ」とだけ一言。

彼は机に向かい直し、手元にあった私立大学の合格通知を見つめた。

その紙の文字は、はっきりと「合格」と書いていた。

でも、心は動かなかった。
東大には、やっぱり、届かなかった。

そして、不思議と──
(もう、どうでもいい)
とも、思っていた。

この三年間、振り返れば、いつも誰かに囲まれていた。

金に目がくらんだ塾長たち。
現実逃避的なスピリチュアル講師。
褒めて、持ち上げて、囲い込もうとする大人たち。
笑顔で無意識にプレッシャーをかけてくる家族。

その中で、ただ黙って、言われた通りに、やってきた。
“従順なる諦観”のまま。

その結果が、これだった。

彼は、その紙をそっと机に戻した。

部屋の隅。

高校時代に買った、埃をかぶったアコースティックギターに、ふと目が止まった。

──その瞬間。
なぜだか、自然に手が伸びた。

ボディを軽く拭い、膝に乗せる。
チューニングもせず、静かに弦をひとつ、つま弾いた。

ポロロン──

ただ、それだけの音。
でも、どこか懐かしく、胸の奥の深いところに、何かが染みていく。

彼は、しばらく指を動かしていた。
昔、ほんの少しだけ練習したアルペジオ。
記憶の奥に沈んでいた音が、ふとよみがえってきた。
 
それは、彼が三年間、封印していた“自分の音”だった。
気がつけば、何も考えず、ただ弾いていた。

模試も、講習も、メンタリングも、英単語も、何も関係ない音の中に、自分がいた。

(……こっちの方が、ずっといい)

そう思った。

東大は不合格だった。
でも、何かが、少しだけ──始まりかけていた。

第18話へつづく