──高田馬場・カンゾウ、塾長室。
黄ばんだ壁紙、煙草の焦げ跡、卓上の「お〜いお茶」。
昭和の匂いが漂うその部屋に、いつもの怒声が響き渡った。
「おい、カマドウマコウジ!!」
「カデノコウジですっ!」
島田タクミは、椅子にふんぞり返ったまま、不敵に笑う。
「オレの放った”草”の情報によるとのぉ、白井はまた東大に落ちたらしいで」
「……草って、スパイ、ですか?」
「フッ、STXに通っとる女子浪人生や。たまたま居酒屋で出会ってな、毎月スペシャルおでん(割り箸に5000円札)渡して、STXの情報をペラペラしゃべってもろてたんや!」
(……それスパイって言わん……)
「今じゃ!今度こそ、囲い込め! カンゾウに呼び戻せ!!」
カデノコウジは、静かに首を振った。
「……それは無理です」
「なぜじゃ!?」
「昨日、白井くんから短いメールが来ました。『僕、早稲田に行くことにしました。ありがとうございました』って」
「な、な、なぬぅ!! お前、引き留めたんやろうな!? 今度こそ今年こそ、カンゾウで東大目指そうって引き留めたよな!?」
「いえ……多分もう無理だと思います。お母様からも報告の電話が先ほどありまして、本人の決意は固いそうです」
島田タクミ、ズルッ!!!(椅子ごとひっくり返る)
「おい、ゼニガタヘイジ!!」
「カデノコウジですっ!」
「いや、ゼニガタヘイジじゃ! ゼニじゃ、ゼニ……ああ、銭がぁ……オレの遊ぶ金がぁぁぁ……」
──渋谷・STX、鳳凰の間。
サギヤタカシは、ビル最上階からの景色を背に、豪華なソファにふんぞり返っていた。
傍にはニッポリ研二。
今日もGMUスピリチュアルなメルマガを書き終え、妙に落ち着いた顔で立っている。
「白井リョウスケ……囲い込めると思ったんだがなぁ」
「……はい、実はご報告が……」
「なんだ?」
「白井君、早稲田に進学するそうです」
サギヤ、ガクッ!!!(体育座り)
「おい、ガッカリ!!」
「ニッポリです!」
「いや、お前にはガッカリだ!!」
今年のSTX、合格者数は増えたが──
東大合格者、ゼロ。
ニッポリ信者の意識高い系は一定数残っているが、模試の成績でいえば下位層が大半。彼らはニッポリの“念”講座で満足してしまっていた。
「まぁ……あと1年だけ様子見やな」
サギヤは心の中で呟く。
(このスピリチュアル野郎も、そろそろ切り時か……)
──カンゾウ、職員室。
白髪が増えた。
胃の薬も、切れていた。
カデノコウジは、椅子に腰を下ろし、胸の奥でそっとつぶやいた。
(……うん。そうか、白井君、早稲田に進学するんだね)
(東大じゃなかったかもしれないけど……君は、前に進んだ)
(あの長い時間を、あの孤独な日々を越えて、ちゃんと──)
部屋の隅に差し込む夕日が、彼の静かな笑顔を、少しだけ照らしていた。
第19話へつづく