第1話:波動と鼻水

渋谷の雑居ビルにある東大受験専門予備校「渋谷東大エクスプレス」。
通称STX。

ここの自習室の片隅の机で、担任の英語講師・日暮里研二(ニッポリケンジ)は、うつむいた生徒と向かい合っていた。

「……やってるんですけど、成績、全然上がらないんです」

生徒の声は、どこか虚ろだった。
うつむいたまま、机の木目をじっと見つめている。

ニッポリは黙ってうなずいた。

相手の言葉を打ち消さず、ただ受け入れる。それが彼の“スタイル”だ。

(わかるよ、その気持ち……)

生徒の顔を見ているうちに、ニッポリはいつしか高校時代の自分の姿を思い浮かべていた。

──制服のブレザーが少しだけ大きかった。

体は小さく、眼鏡は分厚く、体育の時間はいつも「サボり組」と呼ばれていた。

教室の隅でひとり、英語の参考書を開いていた。

熟語が何一つ覚えられない。
というか、例文が全部、自分の人生に関係ないことばかりで、全く頭に入ってこなかった。

“She got over her illness.”
“彼女は病気を乗り越えた。”

(……乗り越えたいのは、こっちの方だよ)

図書館で借りた『英語はイメージで覚える!』という本も、自分には効果がなかった。
イメージするたび、なぜかセーラームーンとタモリが出てくる。

やればやるほど、点数が落ちていった。

ある日の日曜日。

模試の帰り道、自販機の横にしゃがみ込んで、買った缶コーヒーのプルタブを引いた瞬間に、涙がブワッと出た。

なんで泣いてるのかも、よくわからなかった。

ただ、恥ずかしくて缶コーヒーを飲めなくなり、近くのゴミ箱にそっと置いて立ち去った。

──缶にはまだ半分以上、コーヒーが残っていた。

夜、荒川沿いをひとり自転車で走った。

誰にも会わないように、イヤホンをして、ボリュームを最大にして。

鼻水をすすりながら、堤防の上で叫んだ。

「努力しても報われねぇんだよおおおおぉぉぉぉぉぉお!!!」

夜風が冷たく、鼻水はさらに加速し、涙にまじってぐしょぐしょになった。

月は丸く、でも冷たかった。

その後、突然の雨。

びしょ濡れのまま堤防に座っていたら、近所の犬の散歩中のおじさんに、「兄ちゃん、大丈夫か?」と声をかけられた。

「あ、今エネルギーフィールドが濁っているんで……」と言ってしまった。

その瞬間、おじさんの顔がほんのりひきつったのを、今でもはっきり覚えている。

(ああ、俺って、なんでこんなに……)

そのとき、鼻がズルズルっとなって、ティッシュがなかった。
仕方なくカバンの底にあった、使い古しのノートの隅で拭いた。

それが古文の単語帳だったことに気づいたのは、家に帰ってからだった。

そして意識は過去から現在に戻る。
月明かりの堤防から、渋谷の雑居ビルへ──。

ニッポリ研二は、目の前の生徒にもう一度、視線を戻した。

うつむいた顔。震える声。

(あのときの俺と、同じだ)

だからこそ、自分が何を言うべきか、今ならわかる気がした。

目の前の生徒は、変わらず俯いたまま黙っている。

ニッポリ研二は、静かに口を開いた。

「……君の気持ち、わかるよ」

柔らかい笑み。

ニッポリの目の奥は、全てを経験してきた者のように優しく光っていた──あくまで本人のイメージだが。

「僕もね、高校の頃は、成績が全然上がらなかったんだ。このまま消えて、宇宙の塵になりたいな……なんて思ったほどだ」

ニッポリはつづける。

「でもね、ある日、気づいたんだよ。僕は、まだ本気じゃなかった。心の底から、真剣じゃなかったんだ」

生徒がちらっと顔を上げた。

ニッポリはうなずき、そして、静かに背筋を伸ばした。

「そこから僕は変わった。潜在意識にアクセスして、宇宙と繋がったんだ」

生徒の目が、少し泳ぐ。

「君はまだ知らないかもしれないけど、“波動”っていうのは、似たものを引き寄せるんだよ。これはホメオスタシス同調っていってね──つまり、僕の波動が、君にシンクロしたってことさ」

「僕自身は、かつて全国模試で3回、100位以内に入ったことがある。まあ、ベスト100だから、大した自慢にはならないけどね」※注:ニッポリの妄想です

──生徒の目に、光が宿った。

数ヶ月後。春。

校舎の玄関口に、あの生徒が現れた。
手には、東大文Ⅰの合格証明書。

「先生! 合格しました!」

「おおっ……!」

「宇宙パワーにはアクセスできませんでしたけど、心の底から本気で勉強したら、なんとかなりました!先生のおかげです!!」

ニッポリは、合格証を見つめてうなずいた。

「やっぱり、波動は伝わるんだね……」

「君と僕の間に、確実にホメオスタシス同調が起きていたんだよ。僕が、かつて模試で好成績を収めたときの波動が、今の君にシンクロしていた……つまり──僕が優秀だったから、君も優秀になったというわけさ」

「えっ……?」

「いや、まあ理屈はちょっと難しいけど、君の合格は僕の波動の恩恵だってこと。君はラッキーだったんだ。優秀な波動に“たまたま”触れられて」

生徒は、ひきつった笑顔で「……あ、ありがとうございました!」とだけ言って去っていった。

ニッポリは、ゆっくりとその背中を見送りながら、ひとつ深く息をついた。

渋谷の雑居ビル──。
外観はくすんだ灰色。だが、その最上階だけ、妙に眩しく光っている。

エレベーターを降りると、目の前に金色の真鍮プレート。
鳳凰の間(PHOENIX ROOM)

プレートの横には、大理石でできた鳳凰のオブジェが鎮座している。
絨毯には縫い付けられた格言がある。

“Rise Again with Infinite Power”

室内は、深紅の絨毯と金縁のフェニックス画、水槽の中には金色のアロワナ。

そして、その奥には、金髪にサングラス、白スーツに金のネックレスをまとった男が仁王立ちしていた。

──サギヤ高志。STXの総帥である。

ニッポリは、少し誇らしげに報告する。

「どうも、〇〇くん、東大、合格しました!」

「ふーん。やるじゃないか……」

その瞬間、机の電話が鳴った。

サギヤが受話器を取る。

「……ああ? 家賃、値上げぇ!?」

受話器をガチャンと戻すと、目を剥いて叫んだ。

「なんだと……このビル、家賃上げるってよ。この鳳凰の間を含めて、全フロアまとめてな!!」

ニッポリの口元が引きつった。

「え、あの、それって……」

「……お前のせいだ!!」

「へ?」

「お前の残念な波動のせいで、俺の運気が下がっとるんだ!!その“しょぼ波動”が建物中に伝染してるんだ!!」

「そ、そんな……僕は……」

「もういい!次に来るときはな、スーツに電磁波防止シール100枚貼ってこい!それか、もういっそ全身ホイル巻いて入って来い!!」

ニッポリは、ペコペコとお辞儀を繰り返しながら、リュックの奥にそっと手を差し入れた。

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──中には、通販で買った「量子共鳴型・波動安定ペンダント」が、静かに光を放っていた。

(……波動は、きっと整う)

第二話へつづく