第2話:逃げちゃダメだ!

──渋谷STX、自習室の一角。

その日、ニッポリ研二は珍しく「講師っぽい顔」をしていた。

正面に座る男子生徒は、何かを言い出しかけて、また飲み込むような顔をしていた。

「……あの、先生」

「うん?」

「僕……志望校、変えようかと……」

ニッポリの背中がピキリと反応した。

聞きたくなかったその一言が、今、音になって空気を震わせた。

「変える……っていうのは?」

「はい……東大じゃなくて、明治に……」

ゴンッ!

ニッポリの脳内で何かが倒れた。

(波動が……逆流しそうな気がする)

そんな謎の表現が頭をよぎるほど、心の動揺が大きかった。

それと同時に、心のスクリーンに浮かび上がる、あの男の顔。
そう、STXプレジデントのサギヤ・タカシだ。

鳳凰の間で不機嫌にアロワナを眺めている姿が、鮮やかに脳裏をよぎった。

「東大じゃない? お前、それ口に出していい言葉だと思っているのか? ここは、渋谷・東・大・エクス・プレス、だぞ!」

絶対そう言うに決まっている。

「おいニッポリ、うちを”渋谷そこそこエクスプレス”にでも改名するつもりなのか!?」

(やばい……怒られる……!)

さらに追い打ちをかけるように、ニッポリの脳裏には「禰豆子(ねずこ)」が浮かんだ。

正確には──予約ページを眺めて夜な夜な悶絶した、等身大フィギュア・限定版「桐箱Ver.」である。

「今月のボーナス、消えたら買えない……!」

いや、正確に言うなら、“あの桐箱Ver.”を逃したら、もう一生手に入らないのだ。

(プレ値がついたら、もう俺には無理だ……)

ニッポリは震えた。

喉元まで出かかった「それは君の自由だよ」というセリフを、グッと飲み込んだ。

代わりに口から飛び出したのは、まったく予期していなかった言葉だった。

「……逃げるのか?」

生徒が驚いて顔を上げた。

ニッポリ自身も、自分が何を言ったのか一瞬わからなかった。

「え……?」

「あっ、いや、つまり……志望校を下げるってことは、自分の限界を自分で決めるってことだよね?」

(何言ってんだ俺……)

だがその瞬間、脳内に声が響いた。

「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」

いつか聞いたことのあるセリフが、まるで旧約聖書のように繰り返される。

(逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……)

気づけば、視界がゆらぎはじめていた。

そして次の瞬間──ニッポリの意識は、あの地に飛ばされていた。

あの地とは、そう、アメリカ・バージニア州、フェアファックス郡。
ジョージ・メイソン大学(通称GMU)のキャンパス。

赤茶けた芝生、くすんだ空、誰とも目を合わせない学生たち。
その中に、日本人の青年が一人、溶け込めずに立っていた。

ケンジ・ニッポリ、当時24歳。

3浪の果て、国内の私大すら届かず、噂から逃げるように飛び立った海外の地。

近所の人々の「ケンちゃん、今年は?」の無言の圧力。
父親のため息。母親の目線。すべてから逃げた先が、ここだった。

だが、

「もう帰りたい……」

課題は、毎週ハードカバーの専門書を2〜3冊読んでこいというのが当たり前だった。

しかも、それを読んだ前提で授業に出て、教授にいきなり聞かれる。

“So, Kenji. What’s your take on this theory?”

(たけ?…竹?)

何も言えず、「アイ・シンク……」とだけ言って沈黙したことが何度もある。

週末はレポートの嵐。

APA式の引用ルールを覚えるどころか、そもそも“引用”の意味がよくわかってなかった。

さらに問題だったのは、誰も「日本人の留学生だから」と甘くしてくれないということだった。

「入るのは簡単でも、出るのは難しい」
アメリカの大学は、田舎のFランですら“卒業”はガチだった。
その現実に、完全に飲み込まれていた。

言葉も通じない。会話にも入れない。
カフェテリアで「Hi」と挨拶した黒人学生に、「What?」と返されて、(あ、やっぱ無理)と心がポキッと折れた。

毎日が、英語の海で溺れてるのに浮き輪もない状態だった。

学食で一人席に座っていると、何かの誤解で韓国人の新入生と喧嘩になりかけたこともある。

(ここにも俺の居場所なんて、ない……)

そんなときだった。

ある日、唯一話しかけてくれた黒人のクラスメイト、ボブが言った。

「ヘイ、ケンジ! リベレーション・フローって知ってるか?」

「え?」

「この街の教会でやってる集まりなんだ。波動、エネルギー、オーラ……。それに東洋の禅や経絡もミックスしてんだぜ。マジで魂が開放される」

最初は疑っていた。

だが集会では、全員が優しく、自分の英語のミスにも笑わなかった。

“Energy is a journey”

“Your failure is your light”

(……なんだ、この場所……あったけぇ……)

毎週通い、手を合わせ、瞑想し、太鼓を叩いた。
グルテンフリーのケールスープも食べた。

そうして、いつしか彼は「もう逃げない」と思えるようになった。

「踏みとどまれ、踏みとどまれ……俺は、ここで……踏みとどまったんだ……」

──STX、現在。

目の前の生徒は、まだ答えを口にしていない。

ニッポリは、自分の“あの夜”を思い出していた。

「……だから、君にもできるはずなんだ。ここで踏みとどまるんだよ──君の“解放の流れ”が、きっと始まるから……」

フェアファックスの空気の冷たさが、ふと頬を撫でたような気がした。

ニッポリは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
“逃げた過去”と“踏みとどまった夜”。

それが今、目の前の生徒とつながった気がしていた。

ニッポリ研二は、“GMUの夜”から現実へとゆっくり戻ってきた。
意識は過去のフェアファックス郡から、現在の東京都渋谷区へ。

(俺は……今、この子に何を渡せるんだ?)

そう考えたとき、口が自然と動いていた。

「……だから、君にもできるはずなんだ。ここで踏みとどまるんだよ──君の“解放の流れ”が、きっと始まるから……」

目の前の生徒は、明らかに困惑している。

(いや、まだだ。まだ“波動”が届いていない……!)

ニッポリ、椅子をグッと前に寄せ、表情を引き締める。

「いいかい、これは単なる受験の話じゃない。“波動の自己決定権”の話なんだよ」

生徒のまばたきが増えた。

「志望校を下げたい? それはつまり、“君のエネルギーが今、反転しかけてる”ってことなんだ。僕はそれを、“リバース・スパイラル”と呼んでる」

さらに生徒のまばたきが増えた。

「だけど安心してほしい。僕はGMUで、“The Liberation Flow”って団体に出会ってから、波動を立て直す方法をいくつか習得したんだ」

「まず、息を吸って、7秒止めて、5秒で吐く──“クムブハカ”って言うんだけど、これは波動を内側から再起動する技法なんだ。そして夜は、ピラミッド型の帽子をかぶって寝る。これで第六チャクラが自動で整う」

生徒は、唇を噛んだ。

「最後に大事なのは、波動同調者との距離感。僕みたいな“高振動の存在”の近くにいることで、君の内なるエネルギーも自然と高まる。つまり、今、君がこの場にいること自体が……すでに変化の兆しなんだよ」

しばしの沈黙──

生徒、椅子を引いた。

「……あ、あの……やっぱり……」

「……やっぱり?」

「……やっぱり、やめます」

数時間後、場所は鳳凰の間(PHOENIX ROOM)。
深紅の絨毯、金色のフレームに囲まれたフェニックスの絵、水槽で優雅に泳ぐ金アロワナ。その奥、白スーツに身を包んだSTXのプレジデント・サギヤが、ガチャッと受話器を雑に置いた。

「貴様ァ!!なんてことしてくれたんだッ!!」

ニッポリ、顔面蒼白。

「さっき、〇〇くんの保護者から電話が来たわ!!」

「“スピリチュアル系の宗教に勧誘されたような話をされて怖かった”ってな!!」

「い、いえっ、僕はただ、“志望校は魂で選べ”って……」

「“魂”って言ってる時点でもうアウトだ!!!“波動が逆流するとクンダリーニが開く”とかも言ったらしいな!!」

「い、いえ、波動同調者との高振動について…」

「お前なあ、波動が逆流したら、もはやそれは“痔”だ!!受験生に痔をすすめてどうするつもりや!!!」

ニッポリはペコペコと謝りながら、カバンの中で静かにフィギュア予約ページを開く。

──そこに、赤文字で表示された文字。
【在庫なし:桐箱Ver.(等身大)完売しました】

さらに、サギヤが追い打ちをかける。

「この予備校から“東大志望”があと一人消えたらな……来月から、お前の給料の1%を“鳳凰水槽のエサ代”に回す契約、追加しとくからな!」

「え、えぇぇぇぇ……」

「あとな、次また宗教っぽいこと言ったら、“チャクラ全部閉じときます”って張り紙して、受付前に立たせたるからな」

「そ、そんなっ!」

「その時はスーツに“波動注意”ってワッペンもつけとけ。いいな?」

ニッポリは深々と頭を下げながら、心の中で唱えた。

「……逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」

第3話へつづく