──渋谷STX、自習室の一角。
その日、ニッポリ研二は珍しく「講師っぽい顔」をしていた。
正面に座る男子生徒は、何かを言い出しかけて、また飲み込むような顔をしていた。
「……あの、先生」
「うん?」
「僕……志望校、変えようかと……」
ニッポリの背中がピキリと反応した。
聞きたくなかったその一言が、今、音になって空気を震わせた。
「変える……っていうのは?」
「はい……東大じゃなくて、明治に……」
ゴンッ!
ニッポリの脳内で何かが倒れた。
(波動が……逆流しそうな気がする)
そんな謎の表現が頭をよぎるほど、心の動揺が大きかった。
それと同時に、心のスクリーンに浮かび上がる、あの男の顔。
そう、STXプレジデントのサギヤ・タカシだ。
鳳凰の間で不機嫌にアロワナを眺めている姿が、鮮やかに脳裏をよぎった。
「東大じゃない? お前、それ口に出していい言葉だと思っているのか? ここは、渋谷・東・大・エクス・プレス、だぞ!」
絶対そう言うに決まっている。
「おいニッポリ、うちを”渋谷そこそこエクスプレス”にでも改名するつもりなのか!?」
(やばい……怒られる……!)
さらに追い打ちをかけるように、ニッポリの脳裏には「禰豆子(ねずこ)」が浮かんだ。
正確には──予約ページを眺めて夜な夜な悶絶した、等身大フィギュア・限定版「桐箱Ver.」である。
「今月のボーナス、消えたら買えない……!」
いや、正確に言うなら、“あの桐箱Ver.”を逃したら、もう一生手に入らないのだ。
(プレ値がついたら、もう俺には無理だ……)
ニッポリは震えた。
喉元まで出かかった「それは君の自由だよ」というセリフを、グッと飲み込んだ。
代わりに口から飛び出したのは、まったく予期していなかった言葉だった。
「……逃げるのか?」
生徒が驚いて顔を上げた。
ニッポリ自身も、自分が何を言ったのか一瞬わからなかった。
「え……?」
「あっ、いや、つまり……志望校を下げるってことは、自分の限界を自分で決めるってことだよね?」
(何言ってんだ俺……)
だがその瞬間、脳内に声が響いた。
「逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」
いつか聞いたことのあるセリフが、まるで旧約聖書のように繰り返される。
(逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……)
気づけば、視界がゆらぎはじめていた。
そして次の瞬間──ニッポリの意識は、あの地に飛ばされていた。
あの地とは、そう、アメリカ・バージニア州、フェアファックス郡。
ジョージ・メイソン大学(通称GMU)のキャンパス。
赤茶けた芝生、くすんだ空、誰とも目を合わせない学生たち。
その中に、日本人の青年が一人、溶け込めずに立っていた。
ケンジ・ニッポリ、当時24歳。
3浪の果て、国内の私大すら届かず、噂から逃げるように飛び立った海外の地。
近所の人々の「ケンちゃん、今年は?」の無言の圧力。
父親のため息。母親の目線。すべてから逃げた先が、ここだった。
だが、
「もう帰りたい……」
課題は、毎週ハードカバーの専門書を2〜3冊読んでこいというのが当たり前だった。
しかも、それを読んだ前提で授業に出て、教授にいきなり聞かれる。
“So, Kenji. What’s your take on this theory?”
(たけ?…竹?)
何も言えず、「アイ・シンク……」とだけ言って沈黙したことが何度もある。
週末はレポートの嵐。
APA式の引用ルールを覚えるどころか、そもそも“引用”の意味がよくわかってなかった。
さらに問題だったのは、誰も「日本人の留学生だから」と甘くしてくれないということだった。
「入るのは簡単でも、出るのは難しい」
アメリカの大学は、田舎のFランですら“卒業”はガチだった。
その現実に、完全に飲み込まれていた。
言葉も通じない。会話にも入れない。
カフェテリアで「Hi」と挨拶した黒人学生に、「What?」と返されて、(あ、やっぱ無理)と心がポキッと折れた。
毎日が、英語の海で溺れてるのに浮き輪もない状態だった。
学食で一人席に座っていると、何かの誤解で韓国人の新入生と喧嘩になりかけたこともある。
(ここにも俺の居場所なんて、ない……)
そんなときだった。
ある日、唯一話しかけてくれた黒人のクラスメイト、ボブが言った。
「ヘイ、ケンジ! リベレーション・フローって知ってるか?」
「え?」
「この街の教会でやってる集まりなんだ。波動、エネルギー、オーラ……。それに東洋の禅や経絡もミックスしてんだぜ。マジで魂が開放される」
最初は疑っていた。
だが集会では、全員が優しく、自分の英語のミスにも笑わなかった。
“Energy is a journey”
“Your failure is your light”
(……なんだ、この場所……あったけぇ……)
毎週通い、手を合わせ、瞑想し、太鼓を叩いた。
グルテンフリーのケールスープも食べた。
そうして、いつしか彼は「もう逃げない」と思えるようになった。
「踏みとどまれ、踏みとどまれ……俺は、ここで……踏みとどまったんだ……」
──STX、現在。
目の前の生徒は、まだ答えを口にしていない。
ニッポリは、自分の“あの夜”を思い出していた。
「……だから、君にもできるはずなんだ。ここで踏みとどまるんだよ──君の“解放の流れ”が、きっと始まるから……」
フェアファックスの空気の冷たさが、ふと頬を撫でたような気がした。
ニッポリは目を閉じ、ゆっくりと息を吐いた。
“逃げた過去”と“踏みとどまった夜”。
それが今、目の前の生徒とつながった気がしていた。
ニッポリ研二は、“GMUの夜”から現実へとゆっくり戻ってきた。
意識は過去のフェアファックス郡から、現在の東京都渋谷区へ。
(俺は……今、この子に何を渡せるんだ?)
そう考えたとき、口が自然と動いていた。
「……だから、君にもできるはずなんだ。ここで踏みとどまるんだよ──君の“解放の流れ”が、きっと始まるから……」
目の前の生徒は、明らかに困惑している。
(いや、まだだ。まだ“波動”が届いていない……!)
ニッポリ、椅子をグッと前に寄せ、表情を引き締める。
「いいかい、これは単なる受験の話じゃない。“波動の自己決定権”の話なんだよ」
生徒のまばたきが増えた。
「志望校を下げたい? それはつまり、“君のエネルギーが今、反転しかけてる”ってことなんだ。僕はそれを、“リバース・スパイラル”と呼んでる」
さらに生徒のまばたきが増えた。
「だけど安心してほしい。僕はGMUで、“The Liberation Flow”って団体に出会ってから、波動を立て直す方法をいくつか習得したんだ」
「まず、息を吸って、7秒止めて、5秒で吐く──“クムブハカ”って言うんだけど、これは波動を内側から再起動する技法なんだ。そして夜は、ピラミッド型の帽子をかぶって寝る。これで第六チャクラが自動で整う」
生徒は、唇を噛んだ。
「最後に大事なのは、波動同調者との距離感。僕みたいな“高振動の存在”の近くにいることで、君の内なるエネルギーも自然と高まる。つまり、今、君がこの場にいること自体が……すでに変化の兆しなんだよ」
しばしの沈黙──
生徒、椅子を引いた。
「……あ、あの……やっぱり……」
「……やっぱり?」
「……やっぱり、やめます」
数時間後、場所は鳳凰の間(PHOENIX ROOM)。
深紅の絨毯、金色のフレームに囲まれたフェニックスの絵、水槽で優雅に泳ぐ金アロワナ。その奥、白スーツに身を包んだSTXのプレジデント・サギヤが、ガチャッと受話器を雑に置いた。
「貴様ァ!!なんてことしてくれたんだッ!!」
ニッポリ、顔面蒼白。
「さっき、〇〇くんの保護者から電話が来たわ!!」
「“スピリチュアル系の宗教に勧誘されたような話をされて怖かった”ってな!!」
「い、いえっ、僕はただ、“志望校は魂で選べ”って……」
「“魂”って言ってる時点でもうアウトだ!!!“波動が逆流するとクンダリーニが開く”とかも言ったらしいな!!」
「い、いえ、波動同調者との高振動について…」
「お前なあ、波動が逆流したら、もはやそれは“痔”だ!!受験生に痔をすすめてどうするつもりや!!!」
ニッポリはペコペコと謝りながら、カバンの中で静かにフィギュア予約ページを開く。
──そこに、赤文字で表示された文字。
【在庫なし:桐箱Ver.(等身大)完売しました】
さらに、サギヤが追い打ちをかける。
「この予備校から“東大志望”があと一人消えたらな……来月から、お前の給料の1%を“鳳凰水槽のエサ代”に回す契約、追加しとくからな!」
「え、えぇぇぇぇ……」
「あとな、次また宗教っぽいこと言ったら、“チャクラ全部閉じときます”って張り紙して、受付前に立たせたるからな」
「そ、そんなっ!」
「その時はスーツに“波動注意”ってワッペンもつけとけ。いいな?」
ニッポリは深々と頭を下げながら、心の中で唱えた。
「……逃げちゃダメだ、逃げちゃダメだ……」
第3話へつづく