第4話:ガンジスにほえろ!

「最近、全部どうでもよくなってきて……」

渋谷・STXの個別指導ブース。

浪人2年目、東大志望の男子が、ポツリと呟いた。

「旅に出たいんです。インドとか。……ガンジス川の夕焼け、綺麗だろうなぁ……」
 
「インド……?ガンジス……?夕焼け……?」

ニッポリ研二は、目を細めた。
 
インド、ガンジスなどの言葉が、彼の記憶のスイッチを押した。
過去に記憶に幽体離脱。
気づけば、ニッポリはもう、そこに立っていた。
 
夕焼けのガンジス川。

「バカヤロー!!」

ニッポリは、両手を広げて叫んでいた。

「何も変わらねえじゃねえかぁあああ!!!」
 
真っ赤に染まる水面。
そこに叫ぶ一人の日本人。

インドまで来て何を叫んでいるのか。

その姿は、まるで高校時代の荒川河川敷で叫んでいた、あの頃の彼と変わらなかった。
いや、むしろ、成長していないぶん、タチが悪い。
 
記憶はさらにさかのぼる。

インド・バラナシ。
ニッポリ研二は、「ババジに会えるかもしれない」「サードアイが開くかも」と期待して日本からやってきた。

しかし、彼がたどり着いたのは、“日本人バックパッカー村”だった。
 
そのユースホステルには、妙な重力を放つ男がいた。

「おう、新入りか。まあ座れや」

部屋の奥、ベニヤの机を囲む輪の中心に座る男。
タンクトップにカーゴパンツ、ヒゲをたくわえ、体はだらしなく太っている。

見た目は完全にアラフォーだが、自己紹介はこうだった。

「オレ? 今、29。ワセダ休学中。まぁ、ちょっと心が疲れちゃってね、ここにいるってわけよ」

(絶対、アラフォーやろ……)

とニッポリは心の中で思ったが、言えるわけもない。

彼の名前は、誰も知らなかった。
ただ、周囲の日本の若者たちからは「ムキヤ」と呼ばれていた。

「女子大生のグループが昨日リシケシに入ったらしい」

「マジっすか!」

「絶対こっちに連れて来い。行け!ニッポリ!」

──これが、彼の日常になった。

洗濯物、朝食のチャイ買い、Wi-Fiのルーターの位置直し。

そして“女子大生ナビ係”。
つまり、使いっぱ。

ホステルには日本人が7、8人いた。

口を開けば、「日本は腐ってる」「会社は奴隷制度だ」「社会が悪い」「政治が悪い」。
そんな話をしながら、朝から昼酒。

でも、結局一番の口癖はコレだった。

「……あー、女いねぇ」

「女子大生旅行者、今日も来ねぇかなぁ」

誰もヨガも瞑想もしていない。
誰もガンジス川に入らない。
それなのに、皆「魂を浄化するために来た」とか言っている。

「負け犬の波動って、こうやってシンクロするんだな……」

ニッポリはそう思っていた。

だが、そこに“居場所”を感じていたのも事実。
つまり、自分も負け犬たちとシンクロしているじゃないか。

だけど。
ある日、女子大生グループに「ニッポリさん、キモいです」とガチトーンで言われ、宿に戻った瞬間、ムキヤに言われた。

「おまえ、使えねえな」

その一言で、なにかがプツンと切れた。

そして今、ガンジス川の夕焼けに向かって叫んでいるのだ。

「俺は、いったい何をしに来たんだぁッッ!!」

涙も鼻水も混じった顔で吠えながら、彼は叫びたかった。

「自分、どこ行ったぁあああああ!!」

そう、あのとき、確かに俺は叫んだ。
ガンジスの風、染みついたカレーの匂い、そして、ババジにもサイババにも結局会えなかったこと。

すべてが、遠くかすれていく。
意識が遠くインドから日本の渋谷へ回帰する。

気づけばニッポリは、渋谷・STXの個別ブースにいた。

目の前には、「旅に出たい」とつぶやいた生徒。
同じような眼差しを向けてくる、

その顔にニッポリは過去の自分を見た。

「最近、旅に出たいんですよね。インドとか。」

改めてニッポリに話しかけてきた。

ニッポリはゆっくりと椅子を回転させ、ふふっと笑った。

「インドか。……いいね。俺も行ったことあるよ」

「え! ほんとですか?」

生徒は身を乗り出す。

「うん。リシケシもバラナシも行った。ガンジス川にもね」

リシケシやバラナシという地名にはピンと来ていないようだが、ガンジス川に生徒は反応した。

「ガンジス川の夕陽とか、実際どうでしたか?」

ニッポリは遠い目をして言う。

「クンダリーニが、ちょっと覚醒しかけた。」

(“しかけた”って何?)という疑問を飲み込んで、生徒は話を聞く。

「でもね、旅は、悪くない。だけど、ケジメは大事だよ。ケ・ジ・メ、もね!」
 
「ケジメ……?」
 
ニッポリは、ポンと胸を叩いた。

「俺も、ちゃんとGMUを卒業してから旅に出た。まず、やるべきことはやって、それから放浪。そうじゃないと、旅はただの逃げになる」

「……あ、確かに」

「キミも今、やるべきは受験だ。まず合格。インドはそれからだ。そしてそのときは、波動を整えてから行くといいよ」

(どこまで本気なんだこの人)と思いながら、生徒は深くうなずいた。
 
数ヶ月後。

浪人生だった彼が再びSTXを訪れた。

「先生、東大はダメでした。でも……立教大学の観光学部、合格しました!」
 
ニッポリは拍手した。

「おめでとう! それもまた、旅だね……!」

 (……いや、だからアンタにだけは言われたくない)
という言葉を呑み込み、生徒は会釈して去っていった。

その夜。

「おい、シャックリ!」

その声の主は、STXのプレジデント・サギヤ。

金髪グラサンの東大“自称”医学部卒の男である。

「ニッポリです……」

「なんでもいい。とにかく来い!」

「どこに行くんですか?」

「たまにはメシを奢ってやろう。」

今日のサギヤは妙にご機嫌だ。

渋谷・道玄坂にある、老舗カレー店。

赤黒いインドカレーにゆで卵がトッピングされた名物メニュー。

カレーが運ばれ、ニッポリが一口。

激辛。

「うわ、かっ……」

「うまいだろ? インドの本場より辛いんだなこれが。ところで、お前、生徒にインド行ってたとか話してたらしいじゃないか」

「い、いえ、はい……」

「クンダリーニが覚醒したとか、波動が上がったとか言ってたらしいじゃないか」

「け、決して嘘をついたわけじゃ……ヒクッ……ないですけど……ヒクッ」

「おいおいシャックリか。波動が上がる前に辛さに負けてるじゃないか」

「ヒクッ……すみません……ヒクッ」

「よし決めた! 今日からお前の名前はシャックリ研二だ!」

こうして、ニッポリ研二はまた一つ、余計な称号を手に入れた。

クンダリーニ覚醒しかけ系・シャックリ旅人。

それが──渋谷で働く残念な男の、最新の肩書となった。

第5話へつづく。