「最近、全部どうでもよくなってきて……」
渋谷・STXの個別指導ブース。
浪人2年目、東大志望の男子が、ポツリと呟いた。
「旅に出たいんです。インドとか。……ガンジス川の夕焼け、綺麗だろうなぁ……」
「インド……?ガンジス……?夕焼け……?」
ニッポリ研二は、目を細めた。
インド、ガンジスなどの言葉が、彼の記憶のスイッチを押した。
過去に記憶に幽体離脱。
気づけば、ニッポリはもう、そこに立っていた。
夕焼けのガンジス川。
「バカヤロー!!」
ニッポリは、両手を広げて叫んでいた。
「何も変わらねえじゃねえかぁあああ!!!」
真っ赤に染まる水面。
そこに叫ぶ一人の日本人。
インドまで来て何を叫んでいるのか。
その姿は、まるで高校時代の荒川河川敷で叫んでいた、あの頃の彼と変わらなかった。
いや、むしろ、成長していないぶん、タチが悪い。
記憶はさらにさかのぼる。
インド・バラナシ。
ニッポリ研二は、「ババジに会えるかもしれない」「サードアイが開くかも」と期待して日本からやってきた。
しかし、彼がたどり着いたのは、“日本人バックパッカー村”だった。
そのユースホステルには、妙な重力を放つ男がいた。
「おう、新入りか。まあ座れや」
部屋の奥、ベニヤの机を囲む輪の中心に座る男。
タンクトップにカーゴパンツ、ヒゲをたくわえ、体はだらしなく太っている。
見た目は完全にアラフォーだが、自己紹介はこうだった。
「オレ? 今、29。ワセダ休学中。まぁ、ちょっと心が疲れちゃってね、ここにいるってわけよ」
(絶対、アラフォーやろ……)
とニッポリは心の中で思ったが、言えるわけもない。
彼の名前は、誰も知らなかった。
ただ、周囲の日本の若者たちからは「ムキヤ」と呼ばれていた。
「女子大生のグループが昨日リシケシに入ったらしい」
「マジっすか!」
「絶対こっちに連れて来い。行け!ニッポリ!」
──これが、彼の日常になった。
洗濯物、朝食のチャイ買い、Wi-Fiのルーターの位置直し。
そして“女子大生ナビ係”。
つまり、使いっぱ。
ホステルには日本人が7、8人いた。
口を開けば、「日本は腐ってる」「会社は奴隷制度だ」「社会が悪い」「政治が悪い」。
そんな話をしながら、朝から昼酒。
でも、結局一番の口癖はコレだった。
「……あー、女いねぇ」
「女子大生旅行者、今日も来ねぇかなぁ」
誰もヨガも瞑想もしていない。
誰もガンジス川に入らない。
それなのに、皆「魂を浄化するために来た」とか言っている。
「負け犬の波動って、こうやってシンクロするんだな……」
ニッポリはそう思っていた。
だが、そこに“居場所”を感じていたのも事実。
つまり、自分も負け犬たちとシンクロしているじゃないか。
だけど。
ある日、女子大生グループに「ニッポリさん、キモいです」とガチトーンで言われ、宿に戻った瞬間、ムキヤに言われた。
「おまえ、使えねえな」
その一言で、なにかがプツンと切れた。
そして今、ガンジス川の夕焼けに向かって叫んでいるのだ。
「俺は、いったい何をしに来たんだぁッッ!!」
涙も鼻水も混じった顔で吠えながら、彼は叫びたかった。
「自分、どこ行ったぁあああああ!!」
そう、あのとき、確かに俺は叫んだ。
ガンジスの風、染みついたカレーの匂い、そして、ババジにもサイババにも結局会えなかったこと。
すべてが、遠くかすれていく。
意識が遠くインドから日本の渋谷へ回帰する。
気づけばニッポリは、渋谷・STXの個別ブースにいた。
目の前には、「旅に出たい」とつぶやいた生徒。
同じような眼差しを向けてくる、
その顔にニッポリは過去の自分を見た。
「最近、旅に出たいんですよね。インドとか。」
改めてニッポリに話しかけてきた。
ニッポリはゆっくりと椅子を回転させ、ふふっと笑った。
「インドか。……いいね。俺も行ったことあるよ」
「え! ほんとですか?」
生徒は身を乗り出す。
「うん。リシケシもバラナシも行った。ガンジス川にもね」
リシケシやバラナシという地名にはピンと来ていないようだが、ガンジス川に生徒は反応した。
「ガンジス川の夕陽とか、実際どうでしたか?」
ニッポリは遠い目をして言う。
「クンダリーニが、ちょっと覚醒しかけた。」
(“しかけた”って何?)という疑問を飲み込んで、生徒は話を聞く。
「でもね、旅は、悪くない。だけど、ケジメは大事だよ。ケ・ジ・メ、もね!」
「ケジメ……?」
ニッポリは、ポンと胸を叩いた。
「俺も、ちゃんとGMUを卒業してから旅に出た。まず、やるべきことはやって、それから放浪。そうじゃないと、旅はただの逃げになる」
「……あ、確かに」
「キミも今、やるべきは受験だ。まず合格。インドはそれからだ。そしてそのときは、波動を整えてから行くといいよ」
(どこまで本気なんだこの人)と思いながら、生徒は深くうなずいた。
数ヶ月後。
浪人生だった彼が再びSTXを訪れた。
「先生、東大はダメでした。でも……立教大学の観光学部、合格しました!」
ニッポリは拍手した。
「おめでとう! それもまた、旅だね……!」
(……いや、だからアンタにだけは言われたくない)
という言葉を呑み込み、生徒は会釈して去っていった。
その夜。
「おい、シャックリ!」
その声の主は、STXのプレジデント・サギヤ。
金髪グラサンの東大“自称”医学部卒の男である。
「ニッポリです……」
「なんでもいい。とにかく来い!」
「どこに行くんですか?」
「たまにはメシを奢ってやろう。」
今日のサギヤは妙にご機嫌だ。
渋谷・道玄坂にある、老舗カレー店。
赤黒いインドカレーにゆで卵がトッピングされた名物メニュー。
カレーが運ばれ、ニッポリが一口。
激辛。
「うわ、かっ……」
「うまいだろ? インドの本場より辛いんだなこれが。ところで、お前、生徒にインド行ってたとか話してたらしいじゃないか」
「い、いえ、はい……」
「クンダリーニが覚醒したとか、波動が上がったとか言ってたらしいじゃないか」
「け、決して嘘をついたわけじゃ……ヒクッ……ないですけど……ヒクッ」
「おいおいシャックリか。波動が上がる前に辛さに負けてるじゃないか」
「ヒクッ……すみません……ヒクッ」
「よし決めた! 今日からお前の名前はシャックリ研二だ!」
こうして、ニッポリ研二はまた一つ、余計な称号を手に入れた。
クンダリーニ覚醒しかけ系・シャックリ旅人。
それが──渋谷で働く残念な男の、最新の肩書となった。
第5話へつづく。