医学部専門予備校・メディカルデラックス本部。
都庁を望む副都心の高層ビル街。
その一角に建つオフィスビルのひとつ、その34階の応接フロアに、午後の日差しがやわらかく差し込んでいた。
磨き抜かれたガラス窓の向こうには、遠くまで続く東京の街並み。
空調の音すら気にならないほどの静けさの中、時刻は14時をまわった。
扉が開き、ひとりの男が現れる。
濃紺のジャケットに身を包んだ、三十代半ばの男だった。
爽やかな雰囲気を醸し出しつつも、どこか「過剰な明るさ」が漂っている。
「こんにちは! 本日はお忙しいところ、ありがとうございます!ずっと、こういう場を待ってたんです!」
そう言って深く頭を下げたその男の名は、朝倉誠(アサクラマコト)。
履歴書に記された職歴:
早稲田大学政治経済学部卒
大手広告代理店勤務を経て、現在は家庭教師を中心に活動
アサクラの目の前にはスーツ姿で姿勢正しく座る男が一人。
彼は、落ち着いた声で、静かに言う。
「本日はお越しくださり、ありがとうございます。どうぞお掛けください」
声の主は、江添慎太郎(エゾエシンタロウ)。
このメディカルデラックスで、人事採用の全権を任された男だ。
アサクラは腰を下ろすなり、抑えきれない熱が一気に噴き出す。
「大学時代に家庭教師をしていたんですけどね、ある生徒が第一志望に受かったとき、こう言ってくれたんです。先生のおかげです。ありがとう!って」
エゾエは、目を伏せたまま、ペンを止めた。
そして、心の中で舌打ちをする。
「……またか。あの時の感動をもう一度、ってやつか」
アサクラは話し続ける。
「それが忘れられなくて。やっぱり自分は“教える”ってことが天職なんだなって思ったんですよ。生徒と向き合って、感謝されて、未来に貢献する。そんな仕事って、他にないですよね?」
エゾエは一度、頷く。だがその目は笑っていない。
「素晴らしい経験をお持ちですね。では、その後は?」
「会社を辞めたあと、個人で家庭教師をしてまして。評判は良かったと思います。生徒も何人か合格してくれて。でも、やっぱり、もっと──広く教えたいっていう気持ちが強くなって」
「広く、というと?」
「“先生”として、より多くの生徒に出会いたい。今の自分なら、10人でも20人でも、同時に教えられると思うんです」
「なるほど……」
エゾエは書類に目を落とし、淡々と質問を重ねる。
「集団授業のご経験は?」
「いえ、基本はマンツーマンです。でも、教えるって本質は同じですよね? 相手の目を見て、気持ちを理解して──」
「……なるほど」
数秒の沈黙のあと。
エゾエは顔を上げ、目をまっすぐアサクラに向けた。
「失礼を承知で、申し上げます。アサクラさんのお話からは、“生徒の未来”よりも、“ご自身の感情”が先に聞こえてきます」
アサクラの表情が固まる。
「“先生”と呼ばれたい。感謝された時の“感動”が忘れられない。それは素晴らしいことです。教育者冥利に尽きることでしょう。ですが──私たちは教育機関であり、“感動提供サービス”ではありません」
「この現場では、バックオフィス、担任、講師、チューター、受付……など、多数のスタッフが連携して“合格”という結果を生み出しています。講師は、その中の一員にすぎません」
アサクラは、ぐっとこぶしを握りしめる。
「“誰かを受からせた”という快感を求めてこの職に就かれると、必ずどこかで“すれ違い”が起きます」
アサクラは、かすかに唇を動かしかけたが、言葉が出なかった。
エゾエは書類を静かに伏せ、結論を告げた。
「今回は──見送らせていただきます。」
「……そうですか」
アサクラは小さく頭を下げ、肩を落として部屋を出ていった。
扉が閉まり、室内に静寂が戻る。
エゾエはゆっくりと立ち上がり、窓際に目をやった。
春の光。
しかしその表情は、少しも揺れていない。
「“教えたい”だけじゃ、戦力にはならない。“教えることで満たされたい”なら──現場に入れない方がいい」
エゾエは小さく呟いた。
「ここは戦場だ。舞台じゃない」
第2話へつづく。