第3話:元ブラック労働マン

第2話からのつづき

受験業界では通称「メディデラ」と呼ばれている医学部専門予備校・メディカルデラックス。

本部ビルのガラス張りの面接室に、スーツ姿の男が姿を現した。

時計は、午後2時半を指していた。

ノック3回。ドアが開き、男がやや緊張した笑みを浮かべて入ってくる。

「失礼いたします。粟村と申します。本日はよろしくお願いいたします」

粟村孝也(アワムラタカヤ)

履歴書には、職歴が簡潔に記されていた。

地方国立大学 経済学部卒
鶴亀うどん株式会社 入社
店舗運営部 店長

鶴亀うどんといえば、国内外合わせると2000店舗以上を出店している外食チェーンだ。

エゾエ慎太郎は、机上の書類から目を上げると、低い声で促した。

「本日はお越しいただき、ありがとうございます。どうぞ、おかけください」

「はい、失礼します」

椅子の音がわずかに響く。

「さて……今回は、数学講師職へのご応募とのことですが、志望動機をお聞かせいただけますか?」

「はい……学生時代、数学が得意でして……高校では教師を目指していた時期もありました。ただ、親の勧めもあって就職活動では教育業界ではなく、地元の企業を中心に受けて、結果として鶴亀うどんに……」

「なるほど。前職ではどのようなお仕事を?」

「はい。店舗勤務から始まりまして、半年で店長を任され、気づけば5つの店舗の店長業務を兼任しておりました。シフト作成、発注、バイト面接、クレーム対応、調理補助、清掃など……。ほとんど休みなく働いていました」

「……過酷だったでしょう」

「はい……店舗数が急激に増えていた時期でして。同期も皆、入社数ヶ月で、まだ右も左も分からない状態なのに、即戦力扱いで店長にさせられていました」

「……」

「それで、一人で回せるわけもなくて……。それなのに結局、他店舗のヘルプにも行かされて……、結局なしくずし的に5店舗の店長を兼任させられました。そうすると、休みの日も電話がかかってくるんです。“◯◯店でトラブルが起きたから来てくれ”って……」

「トラブル?」

「最近は外国人スタッフも多くて……言葉や文化の違いから、お客様との間でも問題が起きやすくて……。僕も、休憩中に謝り倒しに行ったことが何度もありました」

エゾエは無言でメモを取り続けた。

「そして、最終的には倒れてしまいまして……過労で。医者からも、このままだと危ないと。すぐに退職し、それから1年間、実家で療養していました」

「そして今回、当校に?」

「はい、そろそろ社会復帰しないとと思いまして。数学はずっと好きでしたし、子どもに教えるのはやりがいがあるのではと思い……」

「……これまでに、どこかで教えた経験はありますか?」

「いえ……直接はないです。大学時代、後輩や友人に問題の解き方を教えたりはしていましたけど……」

「そうですか。ちなみに、当校の生徒はピンポイントで“わからない問題の解き方”だけを求めているわけではありません」

「……と、言いますと?」

「医学部受験は年々倍率が上がり、競争も激化しています。単に解法を伝えるだけではなく、合格までの戦略、つまりロードマップを頭の中で描き、生徒一人ひとりに合わせて設計しなければなりません」

「……なるほど」

「そして、それを“やる気がない生徒”にも嫌感なく受け入れさせ、モチベーションを維持させる必要がある。飲食業界とは業種こそ違いますが──知恵を絞り、コミュニケーション力を駆使し、スタッフ、生徒、保護者……多方面との“和”を保ちながら結果を出す仕事です」

アワムラの視線が、机の木目を追ったまま、わずかに沈んだ。

「……正直、大変そうですね……」

エゾエはアワムラの目を見て言った。

「粟村さん。率直に申し上げます。メディカルデラックスには、数学の講師が多数在籍しています。天台予備校、気合塾、よもぎゼミナール、あるいは大学での研究歴を持つ者もいます。残念ながら講師ポストには……空きがありません」

アワムラが、一瞬で顔を曇らせた。

「……そうですか……」

「ですが、粟村さん。これまでのお話を伺う限り、極めてマルチタスク能力に優れ、対人調整、スケジュール管理、臨機応変なオペレーションに強みをお持ちかと思います」

「……は、はい……」

「事務職としてであれば、当校はぜひ力を貸していただきたい。講師と生徒の個別指導スケジュールの調整、教室運営、保護者対応……地味ですが、なくてはならない仕事です」

アワムラは黙ったまま、俯いていた。

「少しお考えいただき、後ほどお返事いただいても構いません」

「……はい。ありがとうございます。検討して、ご連絡いたします」
 
数分後、面接室を出ていくアワムラの背中は、やや小さく見えた。

翌日。
メールが届いた。

『このたびは面接の機会をいただきありがとうございました。やはり、講師としての採用が難しいのであれば、今回は辞退させていただきたく存じます』

エゾエは、机の上のメモ帳に、こう書き記した。

「戦力」にはなり得たが、「戦場」を選ばなかった人。
 
第4話へつづく