第6話:教育現場の後方指揮官

第5話からのつづき

高校野球を引退したあと、エゾエはスポーツ推薦で都内の中堅私立大学に進学した。

経営学部に所属し、野球部にも入った。
だが、そこにはもう、かつてのような“燃える何か”はなかった。

「野球じゃない、何かを学ばなければ」

あの夏を境に、彼の思考は変わっていた。

彼は、組織論にのめり込んだ。

「勝てるチームとは何か」

「勝たせる監督はどう動くのか」

あの敗北から、彼は指揮官の役割に目を向け始めていた。

卒論のテーマは、『監督論から読み解く組織マネジメント』。

野球部員たちは、「え?お前、野球やってんのに監督の方いくの?」と笑った。

エゾエは苦笑いで返しながら、講義後の図書館に籠った。

孫子の兵法、組織心理学、クラウゼヴィッツの『戦争論』。
あらゆる「組織と戦略」に関する本を片っ端から読んだ。

就職先に選んだのは、信用金庫だった。

「なぜメガバンクじゃなく、信用金庫なんですか?」

面接でそう問われ、彼はこう答えた。
 
「チーム戦で活躍したいと思いまして。」

「どういうことですか?」

面接官が身を乗り出す。

「メガバンクは、個人の専門性や能力がモノを言うかもしれません。でも、地元密着型の信金では、職員が一丸となって地域をサポートするチームワークと、信用の積み重ねが重要視され世界だと感じました。つまり私は、地道に積み上げていく組織で働きたいと思ったんです」

採用担当者は、ポカンとしていたが、数週間後、彼には内定通知が届いた。

信用金庫での業務は地味だった。

法人営業、融資書類の作成、預金の集計…。

上司は言った。

「エゾエくんは無駄がないね。後輩の面倒もよく見てる。将来、支店長は確実だよ」

でも、エゾエの心のどこかは、乾いていた。

(もっと“仕組み”を作れる場所に行きたい)

(プレイヤーじゃなく、“監督”になりたい)

そんなとき、融資を担当していた取引先の学習塾の社長から声をかけられた。

「うちの塾、経理と総務がグズグズでね。マネジメントもできる人材を探しててさ。どう?」

エゾエの心は動いた。

「教育業界ってのは、人材がすべてだからね」と、塾の社長は笑顔でそう言った。

迷いはなかった。
彼はその学習塾に転職した。

ここから、エゾエの教育業界での修行が始まる。

小さな塾だった。
地元密着型。教室数は2つ。社員は8人。

高校受験を中心に、地元の中学生を集めて授業をする。
予備校と学習塾の中間のような場所。

エゾエはここの総務部で、庶務と人事を任されることになった。

入社1年目。
教材も作った。タイムカードも導入した。教室のレイアウトも見直した。

しかし、現場は甘くなかった。

エゾエが驚いたのは「講師」という人種だった。

夜、22時。

授業は21時で終わっているはずなのに、講師の一人がまだ教室を占拠していた。

「すみません、もう閉館時間なんで……」

若いスタッフが声をかけると、講師は怒鳴った。

「こっちは生徒のために授業してんだよ!残業代?いらねぇよ!」

その後、帰れなかったスタッフたちに残業代が発生し、余計な人件費がかかることになった。

「うちの子、まだ帰ってこないんですけど、いつまで拘束するつもりですか?」

このような保護者からのクレームに対応するのも塾のスタッフたちだった。

こういうことは日常茶飯事だった。

結果、塾の無駄な人件費と社員のストレスが膨らんでいく。

ある日、30代の数学の講師が自慢げにこう語っていた。

「いや〜、今日の子、数学の偏差値48だったのが、俺の授業で58ですよ。10アップ!」

「俺が入れたも同然っすよ、マジ感謝されましたから!」
 
別の若手講師もこう言う。

「オレの授業で受かったって、あいつら言ってたよ」

「この生徒、完全に俺が育てたからね。成績、ぜんっぜん違うから」

スタッフルームで講師たちが語る“俺の手柄自慢”に、エゾエは背筋が冷えた。

(誰のための教室だ?)

授業は延長する。
ルールは守らない。
感情優先。

「これは教育じゃなくて、承認欲求の代行業みたいだな……」

その夜もまた、授業が終わるまで教室を閉められず、結局、社員が授業が終了し、講師が帰るまで待機することになった。

社員がつぶやいた。

「授業が終わらないと、帰れないのよね……。あの人たち、自分が主人公だと思ってるから」

別の社員もこう返す。

「皆さん、自分の科目で生徒を受からせたと言いますよね…」

エゾエはため息をつく。

(一つの科目で入試に合格できるわけないだろ…。)

一つの科目、、、

一つの、、、

そこでエゾエは愕然とした。
 
(……まるで、あの頃の俺だ)

自分一人が活躍すれば、チームは勝てると思ってた頃の──。

講師たちは言った。

「生徒に泣いて感謝されると、こっちも泣きそうになりますよね」

「俺、教えながら“ああ、今、生徒の未来が変わってるな”って感じるんですよ」

それはまるで、舞台の上の俳優のようだった。

だが、現実はどうか。

授業のレベルは高いかもしれないが、報告連絡はなし。

担当科目を越えて、生徒に余計なことを教える。

他の講師との連携はゼロ。

それでいて、「生徒に好かれてるのは自分だけだ」と信じ込んでいる。

彼らのせいで、チームが乱れる。

講師一人の“熱意”が、塾全体の“混乱”を生んでいた。

「こういう奴らを、戦力にはできない」

エゾエは思った。

「規律とルールの中で、最高のパフォーマンスを出せる人間が──本物だ」

彼は少しずつ、自分の組織哲学を言語化していった。

・自己陶酔型を入れてはいけない

・“熱意”と“規律”のバランスを見極めろ

・スタンドプレイはチームを壊す

・独善講師は、熱心そうに見えて“最大のリスク”だ

こうして、彼の“組織観”は磨かれていった。

人事評価表。
講師会議。
担当科目とカリキュラムのすり合わせ。
講師同士の相性。
生徒のタイプ別分類。
情報の横流しの抑止。

「見える化」「共有」「連携」
──この三本柱を軸に、“教育オペレーション”を再構築していく。

そして、5年後。
彼のチーム運営は業界内でも評価されるようになる。

ある日、ひとりの男がエゾエの前に現れた。

濃い眉毛。細い目。
開口一番、男はこう言った。

「エゾエさん。うちに来てください。うちはね、“猛獣”を飼ってるんです。でも、猛獣って、ちゃんと檻に入れて、エサを与えて、しつければ、一番の戦力になるんですよ」

男の名は、カトウ。
医学部専門予備校「メディカルデラックス」の代表だった。

「大学受験は“個人戦”じゃない。集団戦です。でも今の受験業界は、スタープレイヤー至上主義。講師の“顔”で生徒を釣る。けれど、それには限界がある」

エゾエは頷く。

「うちにも、いますよ。 “オレが東大に入れた!”とか“俺の授業で全員合格!”とか言い出す講師が。でも、やらせっぱなしじゃダメなんです」

カトウも頷く。

「教育界に、監督が必要なんです。エゾエさん、あなたにやってほしいんです。“教育界の後方指揮官”を」

その夜。
エゾエはひとり、塾の屋上に立った。

遠くに見える夜景。
風が強い。
目を閉じると、あの日の甲子園が蘇る。

塁を駆け抜けた仲間の背中。
自分に声をかけた「あの監督」の手のひら。

組織の現場には「監督」が必要だ。
それは、野球でも、教育でも同じだ。
 
(俺の道は……ここだったのかもしれない)

そう思った瞬間、口元に笑みが浮かんだ。

教育現場の後方指揮官・江添慎太郎、
誕生の瞬間だった。
 
第7話へつづく。