第8話からのつづき
午後1時すぎ。曇りがちな空の下、高層ビルが林立する都心の一等地にそびえ立つ、タワービルの37階。
そこにあるのは──医学部専門予備校、メディカルデラックス。
通称「メディデラ」。
ビルの前に立つひとりの男が、サングラス越しにビルを見上げ、唇の端をニヤリと吊り上げた。
「ふっ……ここが、エゾエの城か」
──市川雄二(いちかわゆうじ)。39歳。
文章読解・作成能力検定1級、日本語検定1級、漢字検定1級、世界遺産検定マイスター、城郭検定1級。
あらゆる“1級”を揃え、“努力の証明”として誇らしげに並べている男。
その昔、エゾエ慎太郎もかつて在籍していた下町の塾「大正アカデミー」で、“名物講師”として名を馳せていた……いや、正確には“迷惑講師”だった。
生徒には好かれ、「イッチィ」という愛称で呼ばれていた。
本人もそれを嬉しそうに受け入れ、ブログでもちゃっかり活用していた。
『イッチィ流・得点爆上げの道』
スタッフの間では──溜め息と共に、その名が語られた。
「またですか、イチカワ先生が出す課題が多すぎて、うちの子、他の教科や学校の宿題に手が回らないってクレームが、また保護者から…」
「はいはい、対応しときます……私が……」
イチカワは、大正ゼミナールと業務委託契約を結んでいた講師だった。
社員ではない。
したがって、保護者対応は一切せず、クレームのすべては塾スタッフが引き受けていた。
保護者からのクレームや、保護者面談で親と対峙することのない「安全圏」にいるイチカワは、授業ではやりたい放題だった。
副読本として生徒に押し付けていたのは──
『坂田順一の現代文Specialディープ講義・サルでもわかる!得点爆上がり必勝まるわかり本。』
すでに絶版。古本でプレミア価格がついている。
「ないならヤフオクかブックオフで探せ」が決まり文句だった。
授業ではこう言い切った。
「現代文ができれば、全科目できるようになるんですよ」
それが彼のスローガンだった。
そして、生徒が大学に合格すると、「俺が教えたから彼女は上智に合格できたんだ」と、次の年次の生徒たちに自らの手柄を誇示した。
大学受験は現代文1科目で合格できるわけではない。
しかも、大学入試で現代文の配点が英語より高いケースなど、皆無に等しい。
面接のほうが配点が高い日大芸術学部・写真学科の合格者にまで、「俺の現代文が効いたんだな」と言い放った。
塾のカリキュラムはそっちのけで、「次回までに、プリント7回復習。やらなきゃ、落ちるぞ」と煽り、ブログに書いた勉強法のページを印刷して配布。
他の教科にも遠慮なく口を出す。
「社会? 一問一答やるなら山海っすよ。南進のやつ? あれはダメダメ」
社会の講師の前でも平然とそう言い切った。
「イッチィに任せてりゃ大丈夫!」と生徒は言う。
だが、その陰でスタッフは、日々イチカワの傍若無人な振る舞いの後処理に追われていた。
保護者からのクレーム対応もあれば、平然と1時間も2時間も延長する授業を強制終了させなければならない日もたびたびあった。
また、授業終了後、黒板を消すのは各講師に課せられたルールにもかかわらず、イチカワだけは、自分が書き散らした黒板の上で乱舞するチョークの文字を若いスタッフに消させていた。
消し方が甘いと「おいおい、ちゃんと消えてねぇだろ!」と怒鳴ることもあった。
いつしか、スタッフの間からは、「イチカワ先生とはやっていけません」という声が次第に出始めるようになってきた。
そのようなこともあってか、1年ごとの契約更新に際し、教務責任者は、イチカワにこう伝えた。
「来年度の契約ですが、見送らせていただきます」
だが彼は、その言葉をこう変換した。
「あんな塾、俺の器には小さすぎた。辞めて正解だったよ」
辞めた直後、自宅でブログのレイアウトを整えながら、“イッチィ”で検索をかけて、自分の名前がいくつ表示されるかをチェックしていた。
「次はもっと大きな舞台で……」
「俺が主役になれる場所で……!」
──そして今。メディカルデラックス。
教育界の“総本山”。
講師としては最上級のステージだ。
サングラスを外し、エントランスを抜けていく。
手には、合格実績リストとブログ記事のコピーを綴じたファイル。
表紙にはこう印刷されていた。
『市川雄二の現代文トータル育成論〜偏差値UPの法則、ここにあり』
面接階へ向かうエレベーターの扉が開く。
乗り込む前に、もう一度ビルの天井を見上げ、呟いた。
「見てろよエゾエ……ここで、俺が“主役”になるってことをな──」
──その“幕”が開く数分前。
面接室では、静かに書類をめくる音が、響いていた。
第10話へつづく