受験業界では通称「メディデラ」と呼ばれている医学部専門予備校・メディカルデラックス。
西新宿の高層ビル34階、ガラス張りの面接室。
午後2時30分に彼女は現れた。
柔らかいピンクのジャケットにフリル付きのブラウス、胸元には小さなゴールドのペンダント。
女は、アイドルの宣材写真のように加工された履歴書写真とほぼ同じ笑顔を浮かべて入ってきた。
ノック3回。ドアが開き、軽やかな声が響く。
「失礼いたします。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
西園寺公香(サイオンジキミカ)、42歳。
履歴書には、名門私立大学卒の経歴が誇らしげに記され、職務経歴書にはびっしりと「華麗なる」職歴が並んでいた。
メガバンク総合職(1年4ヶ月)
→ 大手上場メーカー 経営企画部(約2年)
→ スタートアップ マーケティングマネージャー(9ヶ月)
→ 外資系化粧品ブランド プロモーション(1年半)
→ ベンチャー企業 人材開発チーフアシスタント(半年)
→ 飲食チェーン店舗マネジメント統括(約1年)
(中略)
→ フリーランスPRコンサルタント(現在まで半年)
そのすべてに、「プロジェクトリーダー」「アカウントエグゼクティヴ」「チーフアシスタント」など横文字の役職が添えられ、資格欄にはTOEIC945点を筆頭に、秘書検定1級、カラーコーディネーター、宅建、簿記2級、メンタルヘルスマネジメント、温泉ソムリエ……と十種類以上が羅列されていた。
一見、欠点などどこにも見当たらない。
エゾエ慎太郎は、迷いを押し殺すようにして書類に目を戻し、ペンを動かした。
その手元には、僅かな逡巡が滲んでいた。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。どうぞ、おかけください」
「はい、失礼いたします」
座る所作も滑らか。
声のトーン、微笑みの角度、完璧に計算されている。
「さて今回、当校へご応募いただいた動機からお聞かせいただけますか?」
「はい。これまでマーケティングやプロモーション、人材育成など幅広い分野で経験を積んできましたが、やはり私が本当にやりたいことは“人の成長に関わる仕事”だと思い至りまして……。教育という現場で、私の経験を子どもたちに還元できたらと思ったんです」
「……と、言いますと?」
「はい。私は、これまで様々なプロジェクトでリーダーやチーフアシスタントを任され、チームビルディングや人材育成にも携わってきました。ですので、教育現場でも、きっと貢献できると思っています」
エゾエは一度だけ目を細めた。
「これまで本当に、幅広いお仕事をされてきたのですね」
「はい、挑戦することが好きで……。でも、すべて私にとっては“経験値”です。人生は経験を積んでこそだと思っていますので」
──経験値、か。
エゾエの胸中に、ひとつの疑念がよぎった。
(この人にとって、職歴やプロジェクトは“クリア履歴”を積み上げるゲームのようなものなのではないか……?)
エゾエは疑問を投げかけた。
「教育現場は、長期戦です。短期プロジェクトのように“達成したら終了”ではなく、年単位で生徒と向き合い、学力を伸ばし、合格に導く必要があります。その覚悟は、おありでしょうか?」
キミカはにこやかに笑った。
「もちろんです。腰を据える覚悟はありますし、何より子どもたちから学べることも多いと思っていますから」
その言葉は一分の隙もない。
しかし、彼女の笑顔の奥にある“本当の目的”は、まだ見えなかった。
エゾエは無言で書類に視線を落とし、彼女の履歴書と職務経歴書を改めて見つめた。
メガバンク、上場メーカー、スタートアップ、外資系、ベンチャー、飲食チェーン、フリーランスPR……
プロジェクトリーダー、チーフアシスタント、アカウントエグゼクティヴ……
まるで──
彼の脳裏に、ゲーム画面のように並んだ“クリア実績”のリストが浮かんだ。
(まるで倒したモンスターを次々に捕獲して仲間に加えていくRPGのようだ……)
エゾエは口を開いた。
「失礼ですが……これまでの転職歴を拝見していると、一つの業界や会社に長く腰を据えた形跡がありません。なぜ、これほど多くの会社を渡り歩かれてきたのでしょうか?」
キミカは微笑みながら首を傾げた。
「そうですね……やはり私、挑戦することが好きなんです。新しいことにチャレンジして、自分を成長させていきたいんです。その結果、いろいろな業界を経験することになりましたが……どれも私にとって大切な“経験値”ですので」
──また、その言葉。
「……なるほど。では、もし当校に入社された場合、5年後、10年後のご自身の姿を、どのようにイメージされていますか?」
「そうですね……講師としてだけでなく、教室運営やマーケティングなどでも力を発揮できると思いますし、将来的には新規事業や教育コンテンツ開発などにも挑戦できたら嬉しいです」
──やはり、そうか。
エゾエは無言でペンを置き、キミカを真っ直ぐに見た。
「申し訳ありませんが……私には、あなたのキャリアが、まるでゲームでモンスターを捕獲するような、そんな感覚に思えてなりません。いえ、私はRPGには疎いのですが……倒した相手を次々に仲間に加え、次のステージへ進む。あなたにとって、この教育の現場も“次のステージ”なのでしょうか?」
キミカの笑顔が、わずかに引きつった。
「そんなことは……」
「この現場は、仲間集めや実績コレクションの場所ではありません。生徒の努力は、あなたの勲章ではない。」
静寂が落ちた。
キミカは数秒沈黙した後、作り笑いを浮かべた。
「……わかりました。ご丁寧に、ありがとうございました」
立ち上がると、アイドルのように加工された履歴書写真とは対照的に、どこか疲れた背中を見せて面接室を出ていった。
扉が閉まる音。
甘い香水の残り香だけが室内に漂った。
エゾエは無言で書類を閉じ、メモに短く書き記した。
「この人が探しているのは、舞台であって、仕事ではない。」
第9話へつづく