第13話:腐敗の残滓

第12話からのつづき

受験業界では通称「メディデラ」と呼ばれている医学部専門予備校・メディカルデラックス。

本部ビル37階、ガラス張りの面接室。

午前10時半。
スーツ姿の男が現れた。
微かにタバコの匂いをまとっている。

ノック3回。ドアが開き、男がやや引きつった笑みを浮かべて入ってくる。

「失礼いたします……カワバタと申します。本日はよろしくお願いいたします」

――河端康太(カワバタコウタ)、四十代半ば。

履歴書には、志望動機の欄にこう記されていた。

「なんでもやります。」

エゾエ慎太郎は、机上の書類から視線を上げると、静かに言った。

「本日はお越しいただき、ありがとうございます。どうぞ、おかけください」

「はい、失礼します……」

椅子に座ったカワバタは、浅く会釈をして座った。

エゾエは無言で履歴書に目を通す。
数秒後、ふと眉を動かした。

「……競正会に、いらしたんですね?」

カワバタの顔が、一気に曇りと苛立ちを混ぜたような色になる。

「……ああ、はい……。お気づきの通り、私は数ヶ月前まで、大阪の競正会(きょうせいかい)という予備校に勤めていました。総務部で事務全般をやっていたんですが、経理も少し手伝っていました。でも、昨年……創業者の塾長がガンで亡くなりましてね。厳しいけど経営はしっかりしてた人だったんですよ」

カワバタは深く息を吐き出し、唐突に言葉を加速させた。

「いやー……本当、もう散々でしたよ、前の職場は……」

エゾエは無言でメモを取り出す。

「創業社長が亡くなった後は、その塾の番頭格だった部長が、なし崩し的に代表になったんですけど……そこからですよ、全部おかしくなったのは。その部長、もう70過ぎのジジイなんですけど……愛人がいたんですよ、60過ぎのババア。まあ愛人っつっても、客観的に見たらただの老婆ですけど……」

エゾエのペンが、かすかに止まる。

「そのババア愛人を社員として入れた途端ですよ、好き勝手し放題。ストイックに経費削減して続いてきた予備校だったのに、あのババアが“床が汚いから絨毯に変えろ”だの、“壁が殺風景だから絵を飾れ、観葉植物を置け”だの。あんなもんに金かけてどうするんですか?」

カワバタは一気に言葉を吐き出し、続けた。

「勤務も適当なんです。昼前にやってきて“美容院予約してるから早退するわ”って2時間で帰るんですよ。で、オバちゃんパワーで生徒から人気あった若い女性スタッフをネチネチいじめて辞めさせる。ほんっと陰湿でさ。あれは“女”じゃなく“妖怪”ですよ、マジで」

「……」

「もちろん社員もババアの身勝手さを注意しましたよ? でも注意した社員は皆社長室に呼び出されて、“俺の可愛いヨシコになにすんじゃボケ!”ってジジイに怒鳴られる。社長室も改装して、やれシャンデリアだ、やれ革張りソファーだで豪華にしやがって。そんなもんに金かけるから、社員や講師の給料が……3ヶ月も遅配ですよ!」

エゾエは、無表情のままペン先を小さくトントンと叩いた。

「で、あのジジイ、昼から尼崎の競艇行ってスりまくって。負けたら僕に“おいカッパ!”あ、僕、カワバタだからジジイからはカッパって呼ばれてたんですけど、”おいカッパ、俺が抜いた100万円の帳尻合わせで帳簿いじっとけや”って命令するんですよ。最初は数万円抜くくらいだったのが、いつの間にか数十万、百万円単位。キャバクラ通いにテッチリ鍋に……愛人連れて夜な夜なフグ食いに行きやがって」

「……」

カワバタの表情は、軽蔑と疲労と苛立ちが混ざり合い、歪んでいた。

「結局……会社は倒産ですわ。しかも計画倒産。潰れるちょっと前に、ウダツの上がらない社員を代表にして、自分は退職金がっぽり持って退職して逃亡ですよ。……もう……ひどいもんでした。そんな会社にいたんですよ、僕は……」

エゾエは無表情のまま、目の前の男を見ていた。

創業者が一代で築き上げた会社を、その理念や経営方針を理解しないまま後を継いだ人物が私物化してしまう。
教育業界に限らず、中小企業ではよくある話だ。

しかし、それにしても……ここまで露骨で醜悪な例も珍しい。

会社を私的な遊び場や資金源と見なし、愛人のわがままに振り回され、無駄な改装に金を注ぎ込み、競艇やキャバクラ、鍋料理に散財する。

まるで会社はATMのような扱いだ。

そして、社員の給料は遅配。
注意すれば恫喝され、職場の士気は地の底へ落ちる。

優秀な人材から順に去り、残るのは不満と諦念だけ。
最悪なのは──

(ウダツの上がらない社員を代表にして、自分は退職金をがっぽり持って去った……か)

計画倒産。

責任はすべて会社と新代表に押し付け、自分だけは悠々と逃げる。

ガバナンスなどなく、個人的な負債と会社の資産を混同し、むしり取れるだけむしり取る。

創業者が亡くなり、後継者問題が噴出した典型的な事例だ。
後を継いだ部長には経営者としての資質も覚悟もなく、私利私欲に走るだけだった。

(……中小企業の後継者問題、ガバナンスの欠如、経営者倫理の崩壊──)

残念ながら、このような倒産は予備校業界でも珍しくはない。
その会社で何年も働き、給料を遅配され、愛人ババアとジジイの修羅場を見続けてきた男が、今、目の前で“なんでもやります”と繰り返している。

──カワバタの愚痴は、まだ続いた。

「それでね、倒産してからも大変だったんですよ。僕、最後まで経理手伝ってたから……講師たちが“給料まだですか?”って怒鳴り込んでくるんですよ。でも金庫の中なんもないし、銀行口座も差し押さえられてて、“ありません”って言うしかなくて……」

エゾエは無言でペンを走らせる。

「で、あのジジイは倒産した途端に姿くらましてさ。愛人ババアも一緒にいなくなって。会社には債権者と講師と保護者とで怒号が飛び交って……もうカオスでしたよ。ほんと、あのジジイとババァは地獄に落ちればいいんですよ……」

カワバタの声が震えていたが、それは悲しみではなく、吐き捨てるような怒りだった。

「……で、御社ならそういうことはないと思いまして。東京の実家に戻ってきたので、心機一転マトモな会社でマトモな仕事をしたいんです。僕、本当にどんな仕事でもやりますから。事務でも、備品管理でも、経理でも、雑用でも……もう一度、ちゃんとした会社で働きたいんです……」
 
数秒の沈黙。

エゾエはペンを置き、カワバタの目を真っ直ぐに見た。

「カワバタさん」

「……はい」

「率直に申し上げます。当校では、“なんでもやります”という言葉は、評価対象にはなりません」

カワバタの顔が、引きつった。

「……え」

「“何をしてきたか”“何ができるか”“何をしたいのか”。この三つが、ここで働く上での最低条件です。今のお話を伺う限り──あなたには、そのどれもが見えてこない」

カワバタの唇が震える。

「い、いや……僕は……」

「もうひとつ」

エゾエの声に微かな熱が宿る。

「この面接時間で、あなたは自分の価値ではなく、愚痴を語り続けました。……あなたが語ったのは、自分の美点ではなく、他人の汚点だけです。」
 
静寂が落ちる。

「……ひどい職場環境で、翻弄され、心身ともにすり減ったことには同情します」

エゾエは一拍置き、淡々と続けた。

「こういう言い方は、今のあなたには厳しいかもしれませんが──もう時間を巻き戻すことはできません。過去を忘れろとは言いませんし、私にはそんなことを言う権利もありません。しかし、大切なのは……これから、あなたがどうしたいのか、何をしたいのか、そして何ができるのか……ではないでしょうか。」

カワバタは肩を落とし、ゆっくりと立ち上がった。

「……わかりました……失礼します」

タバコの匂いだけが、面接室に取り残された。
扉が閉まる音。
エゾエも無言で書類を閉じた。

創業者の死とともに理念を失い、後継者の私物化で崩壊していく会社。
それに翻弄され、人生を浪費させられた人間の哀れさ。

気の毒だとは思う。雇えば、おそらく本当に「なんでも」やるのだろう。
だが、彼の全身から染み出す愚痴と、過去に吸い取られすぎたエネルギーは、現場に沈殿し、他のスタッフの士気を蝕むかもしれない。
苦労をバネに飛べる者もいれば、バネの錆に足を取られる者もいる。

心を鬼にせねばならぬ場面は、ある。

エゾエは手帳にゆっくりとペンを走らせた。

「愚痴の多さは、現場の負債。」

静かに顔を上げると、窓の向こうに雲間から射す朝の光が、まだ冷たいビル群を照らしはじめていた。

第14話へつづく