第13話:花火の人

受験業界では通称「メディデラ」と呼ばれている医学部専門予備校・メディカルデラックス。

その本部ビル10階、午後3時を少し過ぎた頃。
ガラス張りの面接室に、ひときわ目を引く姿が現れた。

ギラリと光るネイル。
濃いめのチークとマットなリップ。
目元はしっかり盛られているが、どこか品は保たれていた。

ファストブランドとは一線を画す上質なワンピース。
だが、銀座のクラブか青山のサロンに向かう途中といった出で立ち。

「失礼いたします。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

彼女は、にこやかに微笑んだ。

葛西芹佳(かさいせりか)、36歳。

明治学院大学法学部卒。
これまで複数の企業で企画・広報・人事を経験。
学習塾でのアルバイト歴もあり、「教育への思いは人一倍」と履歴書にはあった。

エゾエ慎太郎は、書類から一瞬だけ目を上げると、いつもの調子で言った。

「どうぞ、おかけください」

「ありがとうございます」

着席の動作も、淀みなくスムーズ。
だが、その身のこなしには「場慣れ」が見える。

「今回、当校にご応募いただいた動機からお聞かせいただけますか?」

セリカは即座に応じた。

「はい。これまで企業の中で、商品企画や人事など幅広く経験してまいりましたが、やはり“人の可能性に関わる仕事”がしたいと思い、教育の世界にチャレンジしたいと考えたんです」

綺麗な言葉だ、とエゾエは思った。

「教育業界は初めて、では?」

「学生時代、学習塾で講師をしていた経験があります。国語と英語を担当していて……その時の喜びが、今もずっと胸の奥に残っているんです」

「……なるほど」

「あと、やっぱり、教育って“人を育てる喜び”があるじゃないですか。そういう手応えがある場所で、今度こそ腰を据えて働きたいと思っています」

──今度こそ、という言葉。
そこに滲む、これまでの“腰の据わらなさ”。

エゾエは無言で視線を履歴書に戻した。

──明治クラフト社、ピンテック、モリコーネ、ザミューズメント、安政カンパニー……
中小からベンチャーまで、5社以上を渡り歩いている。

「さまざまな経験をされてきたんですね」

「はい。どれも無駄な経験はなかったと思います。むしろ、教育の現場でも生かせる引き出しがたくさんあると思っています」

また、“引き出し”という言葉。
その引き出しが、何のために、誰のために、どの瞬間に開くものなのか。
彼女は、理解しているのだろうか?

エゾエは、手元のペンをそっと置いた。

「お時間をいただき、ありがとうございました。最後に、何かご質問などはございますか?」

セリカは、ほんの少し声のトーンを落とした。

「……教育の現場って、やはり厳しいですか?」

「ええ。非常に」

ユウコは小さく笑って、「ですよね」と言った。

その笑顔は──どこか、夜の蝶のような、戦い慣れた微笑みに見えた。

扉の向こうに、夜の街の匂いがうっすらと混じっていた。

セリカが退室したあと、室内にはわずかに香水の甘い残り香が漂っていた。
エゾエ慎太郎は、書類の端に細くメモを走らせる。

──「花火の人」。

一度、ペンを置き、深く息を吐く。

数分後、別室で待機していたセリカが戻された。
再び面接室に入ると、彼女はもう一度、礼儀正しく頭を下げた。

「お待たせしました」

エゾエは、書類をきちんと閉じたまま、静かに口を開いた。

「まずは、これまでのご経験と、お話をお聞かせいただいたことに、心から感謝いたします」

セリカが小さく頷いた。

「ただ……今回のご応募については、見送らせていただきたいと存じます」

セリカの目が、わずかに揺れた。

「……理由を、お聞きしてもよろしいでしょうか?」

エゾエは、正面から彼女を見据えた。

「教育という仕事は、花火のような瞬間の煌めきよりも──、炎を絶やさぬよう、静かに薪をくべ続ける仕事です。一見、何も起こっていないように見える日々にこそ、最も多くのエネルギーが必要なんです」

「……」

「毎日、変わらぬように見える“普通”を保つには、見えない努力と粘り強さが要ります。そしてその『普通』を揺るがす出来事が起きたときには、瞬時にギアを上げて、生徒の心に火を灯す。そういう持久的かつ瞬発的なエネルギーの使い方が、この現場には求められます」

セリカの目が、じっとエゾエを捉えていた。

「あなたのキャリアや能力は素晴らしいと思います。でも……それは、“場を動かす力”としては機能しても、“日々を支える力”とは、少し質が違うと私は思うのです」

「……」

「教育は、目立たず、報われず、でも絶えず誰かの火種になる──そういう仕事です。私は、そこにこそ誇りがあると思っています」

静寂。

やがてセリカは、小さく息を吐いた。

「……わかりました。ご丁寧に、ありがとうございました」

立ち上がった彼女の姿勢には、ほんのわずか、夜の街よりも、昼の光に向いた何かが宿っていた。

扉が閉まる。

甘い香りだけが残された面接室で、エゾエは再びペンを手に取った。
履歴書の余白に、こう記した。

「教育現場は“次のステージ”ではない。それは、そこに居続けるという決意だ。」

そして、ファイルを閉じた。

第14話へつづく