──その日、島田タクミは不機嫌だった。
夕飯用に買ったスーパーの「おでんパック」。
「お得セット!」と書いてあったくせに、中身を開けてみたら──
こんにゃく、白滝、そして、やたらでかいちくわぶ。
タクミは、しけた顔でため息を吐いた。
「牛すじも、タコも、もち巾も入ってねぇ。……どこが“お得”だよ、クソが」
タバコに火をつけながら、しょぼいおでんパックを、ぼんやり見つめる。
「……結局、世の中ってのはよ、派手なもんより、地味に役立つもんが生き残るんだよな……」
そんな小さなイライラを抱えたまま、塾長室のドアがノックされた。
「失礼します、村井です」
「おう。入れ」
都内の中堅私立高に通う高校3年、村井陸翔(むらいりくと)。
サッカー部のレギュラー。
ポジションはサイドバック。
走力と体力はあるが、キラーパスもシュート力も微妙。
監督からは「泥臭いプレーが持ち味」と言われていた。
部活はそこそこ。成績は、文系なら平均より少し上。
ただし理系はからっきしダメ。
──ある日、担任からこう告げられた。
「村井、お前さ。大学、指定校推薦でいけるかもしれないぞ。○○大学のスポーツ推薦枠、空いてるんだ。…行っとくか?」
思わず「マジっすか?」と答えた。
──確かに、受験勉強をしなくていいのは魅力的だった。
願書と面接だけで“ほぼ合格”が決まる。
浪人の心配もない。親も安心する。
だけど、心のどこかがザワついた。
「……オレ、このままでいいのか?」
今、推薦に乗っかれば、それで受験は終わる。
だけど──
来年3月、クラスメイトたちが続々と有名大学に合格していったとき、自分は心から祝福できるだろうか?
安易に“逃げ道”を選んだことを、後悔しないだろうか?
──だから、塾長室の扉を叩いた。
リクトは、少し緊張した面持ちで切り出す。
「……塾長。指定校推薦、行こうか迷ってて……」
「推薦?」
タクミは、ラガーシャツを直しながら缶コーヒーをすする。
「○○大学のスポーツ推薦枠、空いてるんです。願書と面接だけで、ほぼ合格って言われて……」
「ほぉ。で、受けるのか?」
「……それが、迷ってて。このまま逃げるみたいで、なんかイヤで……」
タクミは、タバコの煙を吐きながら、机の端に置いた、しょぼいちくわぶ鍋を見た。
「──お前、ちくわぶに似てるな」
「……は?」
「目立たねぇ。派手じゃねぇ。主役にはなれない。でもな、ちくわぶってのは、出汁を吸って、腹を満たす。地味だけど、役に立つんだよ」
リクトはさらに戸惑った顔になる。
「スポーツ推薦ってのは、コンビニのおでんセットみてぇなもんだ。温めりゃ終わりだ。──味もくそもねぇ」
「……。」
「だがな、ちくわぶは、コトコト煮込むほど、芯まで出汁を吸う。時間はかかるが──ちゃんと味になるんだよ」
リクトは、黙って耳を傾ける。
「お前さ、サイドバックだろ?」
「……はい」
「サイドバックってのは、ピッチのバランスを支えるやつだ。派手なヒーローじゃねぇ。だけど、いなきゃ試合が崩れる」
「お前みたいな奴はな、社会のサイドバックになれる」
タクミは、机を指でトントンと叩いた。
「──法学部、行け」
「は、法学部?」
「そうだ。社会のバランスを守るちくわぶになれ。法律ってのは、派手じゃねぇけど、世の中を支える裏方だ」
「……」
「お前には煮込まれる価値があると、俺は見てる」
リクトは思わず聞き返した。
「……それって、オレが“ちくわぶ”ってことでいいんですか?」
タクミは大きくうなずいた。
「そうだ。“牛すじ”にはなれねぇ。タコや餅巾着にもなれねぇ。だがな、“支える味”ってのがあるんだよ。しかも──“染みたちくわぶ”は最強だ」
タクミはたたみかける。
「サッカーで“バランス”を見れるやつってのはな、法律でも戦えるタイプだ」
「俺は、お前に言いたい。──法学部を目指せ。社会を守るサイドバックになれ」
「社会を守るサイドバック、ですか…?」
「地味だが、強い。おでんにちくわぶが必要なように、社会にも法律が必要なんだ」
タクミは、タバコをくゆらせながらニヤリと笑った。
リクトはますます混乱する。
「スポーツ推薦ってのは、コンビニのセットおでんだ。温めて、はい終わり。“味”がねえ。けどな、ちくわぶは長く煮込むほど味が出る。それだけに、だしに染まるまでに時間がかかるんだよ」
理解できないままに、少しずつ話に引き込まれるリクト。
「ま、正直な話な──、今日の昼、しけたおでんパック買って、なんかムカついてたから言っただけだけどな」
「……え」
リクトは、思わず吹き出しそうになった。
でも──不思議と、心に火が灯った。
言ってる内容に説得力があったわけじゃない。
でも──何かが腑に落ちた。
逃げたくない。
自分の力で、社会のどこかを支えたい。
リクトは、指定校推薦を辞退した。
それを聞いた担任は、少し驚いていたが、何も言わなかった。
冬の追い込み、そして受験本番。
結果、リクトは中堅国立大学の法学部に合格した。
合格発表の帰り道、ふとスマホから島田にメールを送った。
【塾長、オレ、染みたちくわぶくらいにはなれましたかね?】
──5分後、返信が届いた。
【まだまだハンペンにもなれてねぇよ。煮込みが足りん】
春の風が吹く帰り道、リクトは笑ってつぶやいた。
「でもまあ……これからじっくり煮込んでいきますよ」
──数年後。
「子どもたちの権利を守る若手市議・村井リクト」
そんなニュースが、ネットの片隅に静かに流れていた。
第4話へつづく