第3話:村井リクトの法進

──その日、島田タクミは不機嫌だった。

夕飯用に買ったスーパーの「おでんパック」。

「お得セット!」と書いてあったくせに、中身を開けてみたら──
こんにゃく、白滝、そして、やたらでかいちくわぶ。

タクミは、しけた顔でため息を吐いた。

「牛すじも、タコも、もち巾も入ってねぇ。……どこが“お得”だよ、クソが」

タバコに火をつけながら、しょぼいおでんパックを、ぼんやり見つめる。

「……結局、世の中ってのはよ、派手なもんより、地味に役立つもんが生き残るんだよな……」

そんな小さなイライラを抱えたまま、塾長室のドアがノックされた。

「失礼します、村井です」

「おう。入れ」

都内の中堅私立高に通う高校3年、村井陸翔(むらいりくと)。

サッカー部のレギュラー。
ポジションはサイドバック。

走力と体力はあるが、キラーパスもシュート力も微妙。
監督からは「泥臭いプレーが持ち味」と言われていた。

部活はそこそこ。成績は、文系なら平均より少し上。
ただし理系はからっきしダメ。

──ある日、担任からこう告げられた。

「村井、お前さ。大学、指定校推薦でいけるかもしれないぞ。○○大学のスポーツ推薦枠、空いてるんだ。…行っとくか?」

思わず「マジっすか?」と答えた。

──確かに、受験勉強をしなくていいのは魅力的だった。

願書と面接だけで“ほぼ合格”が決まる。
浪人の心配もない。親も安心する。

だけど、心のどこかがザワついた。

「……オレ、このままでいいのか?」

今、推薦に乗っかれば、それで受験は終わる。

だけど──

来年3月、クラスメイトたちが続々と有名大学に合格していったとき、自分は心から祝福できるだろうか?

安易に“逃げ道”を選んだことを、後悔しないだろうか?

──だから、塾長室の扉を叩いた。

リクトは、少し緊張した面持ちで切り出す。

「……塾長。指定校推薦、行こうか迷ってて……」

「推薦?」

タクミは、ラガーシャツを直しながら缶コーヒーをすする。

「○○大学のスポーツ推薦枠、空いてるんです。願書と面接だけで、ほぼ合格って言われて……」

「ほぉ。で、受けるのか?」

「……それが、迷ってて。このまま逃げるみたいで、なんかイヤで……」

タクミは、タバコの煙を吐きながら、机の端に置いた、しょぼいちくわぶ鍋を見た。

「──お前、ちくわぶに似てるな」

「……は?」

「目立たねぇ。派手じゃねぇ。主役にはなれない。でもな、ちくわぶってのは、出汁を吸って、腹を満たす。地味だけど、役に立つんだよ」

リクトはさらに戸惑った顔になる。

「スポーツ推薦ってのは、コンビニのおでんセットみてぇなもんだ。温めりゃ終わりだ。──味もくそもねぇ」

「……。」

「だがな、ちくわぶは、コトコト煮込むほど、芯まで出汁を吸う。時間はかかるが──ちゃんと味になるんだよ」

リクトは、黙って耳を傾ける。

「お前さ、サイドバックだろ?」

「……はい」

「サイドバックってのは、ピッチのバランスを支えるやつだ。派手なヒーローじゃねぇ。だけど、いなきゃ試合が崩れる」

「お前みたいな奴はな、社会のサイドバックになれる」

タクミは、机を指でトントンと叩いた。

「──法学部、行け」

「は、法学部?」

「そうだ。社会のバランスを守るちくわぶになれ。法律ってのは、派手じゃねぇけど、世の中を支える裏方だ」

「……」

「お前には煮込まれる価値があると、俺は見てる」

リクトは思わず聞き返した。

「……それって、オレが“ちくわぶ”ってことでいいんですか?」

タクミは大きくうなずいた。

「そうだ。“牛すじ”にはなれねぇ。タコや餅巾着にもなれねぇ。だがな、“支える味”ってのがあるんだよ。しかも──“染みたちくわぶ”は最強だ」

タクミはたたみかける。

「サッカーで“バランス”を見れるやつってのはな、法律でも戦えるタイプだ」

「俺は、お前に言いたい。──法学部を目指せ。社会を守るサイドバックになれ」

「社会を守るサイドバック、ですか…?」

「地味だが、強い。おでんにちくわぶが必要なように、社会にも法律が必要なんだ」

タクミは、タバコをくゆらせながらニヤリと笑った。

リクトはますます混乱する。

「スポーツ推薦ってのは、コンビニのセットおでんだ。温めて、はい終わり。“味”がねえ。けどな、ちくわぶは長く煮込むほど味が出る。それだけに、だしに染まるまでに時間がかかるんだよ」

理解できないままに、少しずつ話に引き込まれるリクト。

「ま、正直な話な──、今日の昼、しけたおでんパック買って、なんかムカついてたから言っただけだけどな」

「……え」

リクトは、思わず吹き出しそうになった。
でも──不思議と、心に火が灯った。

言ってる内容に説得力があったわけじゃない。
でも──何かが腑に落ちた。

逃げたくない。
自分の力で、社会のどこかを支えたい。

リクトは、指定校推薦を辞退した。

それを聞いた担任は、少し驚いていたが、何も言わなかった。

冬の追い込み、そして受験本番。

結果、リクトは中堅国立大学の法学部に合格した。

合格発表の帰り道、ふとスマホから島田にメールを送った。

【塾長、オレ、染みたちくわぶくらいにはなれましたかね?】

──5分後、返信が届いた。

【まだまだハンペンにもなれてねぇよ。煮込みが足りん】

春の風が吹く帰り道、リクトは笑ってつぶやいた。

「でもまあ……これからじっくり煮込んでいきますよ」

──数年後。

「子どもたちの権利を守る若手市議・村井リクト」

そんなニュースが、ネットの片隅に静かに流れていた。

第4話へつづく