──JR高田馬場駅から徒歩5分。
『関東学力増進機構(通称・カンゾウ)』本部ビルの総務部に、一本の退職届が提出された。
提出者の名は、犬堂慎也(いぬどうしんや)、34歳。
京大卒、塾講師歴10年以上。
週3回、数学を教える業務委託の講師であり、生徒のみならず学生チューターたちからも信頼されていた男だ。
そのイヌドウが、契約更新を断った。
理由は、淡々とこうだった。
「一身上の都合により、契約を終了させていただきます」
──それだけ。
特に揉めることもなく、イヌドウはカンゾウを去った。
総務部の若手社員が、ぼそっと呟く。
「……もったいないっすね、あの先生、人気あったのに」
「まあ、講師なんて使い捨てだからな。次、探すだけだ」
総務部長のアカザワは、慣れた調子で言い捨てた。
──その頃。
塾長室では、島田タクミが足を机に投げ出し、ガーガーとハードディスクの音がうるさい年季の入ったパソコンのモニターに映るキャバ嬢のプロフィールページを凝視していた。
「イヌドウ? 誰それ」
総務部からの報告に、面倒くさそうに片手を振った。
「週3しか来てねぇ業務委託の一匹や二匹、いちいち覚えちゃいねぇよ」
だが数日後。
現場から、奇妙な報告が上がってきた。
「最近、生徒の辞めたいって申し出がポツポツ出てきてまして……」
「なんだと?」
「それから、学生チューターも……、何人か、アルバイトのシフト希望日を出してこないんです」
「……大学のテスト期間じゃねぇのか?」
「いや、今は別にテストでも……」
報告を聞きながら、タクミは怪訝な顔をした。
──さらに、総務部の別ラインから緊急報告が入る。
「ちょ、塾長!大変です!」
「はぁ?」
「巣鴨に新しい塾ができてます!……それが、これ、見てくださいよ!」
社員が見せたのは、スマホに表示された、素人感丸出しのホームページ。
【邁進塾】
そして、講師一覧には──
見覚えのある顔がズラリ。
「あいつら……うちの学生チューターたちじゃねぇかッ!!」
タクミの顔が、赤黒く変わった。
机をバンッ!と叩き、立ち上がる。
「あんの野郎ぉぉ~~~~ッ!!」
怒りのあまり、タクミは叫んだ。
「うちのキレイどころばっか持っていきやがってぇぇぇ!!!」
生徒が抜かれた?
売上が落ちる?
そんなことはどうでもいい。
タクミの怒りのツボはそこではなかった。
目をつけていた女子大生チューター数人の顔写真が「邁進塾」のホームページに載っていたことである。
「許さねぇ……ぜってぇ許さねぇ……!」
総務部の真面目な社員が、おずおずと口を開く。
「あの、塾長……顧問弁護士に相談すれば、訴訟起こせますよ。業務委託契約には、競業避止義務も秘密保持義務もちゃんと入れてありますし……」
タクミは、不敵にニヤリと笑った。
「そんな正攻法じゃつまんねぇよ」
缶コーヒーを一口。
「俺には、──秘策がある」
社員たちは顔を見合わせた。
(で、出た……塾長の秘策……)
このときまだ、誰も知らなかった。
これからカンゾウの刺客たちによる、史上最もセコく、執念深い嫌がらせ作戦が始まろうとしていることを──。
第2話へつづく