第2話からのつづき
──四月、ある平日。
沢田ユウコは、北千住駅のホームに立っていた。
特急「リバティけごん」の発車ベルが鳴る。
行き先は、日光。
(たまには一泊くらい、いいか)
座席に腰を下ろし、窓の外をぼんやりと眺める。
平日昼間の特急は空いていて、客層も静かだった。
(これが最高なんだよな)
誰にも干渉されない。誰にもマウントされない。
そんな時間が、ユウコにとって一番のご褒美だった。
宿は、駅から少し離れた小さな旅館。
部屋は純和風。
窓を開ければ、杉の林が広がっている。
荷物を置き、すぐに温泉へ向かった。
内湯に入ると、ふわりと湯気が立ち、肌にまとわりつく。
(……やっぱ温泉はいい)
のぼせる前に湯船を出て、広縁に腰かける。
静かに流れる時間。
誰にアピールするでもない、自分だけの時間。
それこそが、ユウコにとっての「贅沢」だった。
夕食は、旅館の食事処で出された。
──天ぷら御膳。
山菜、海老、キス。
さくさくと軽い衣をまとった天ぷらが、白い皿に並んでいる。
箸を伸ばしながら、ふと思い出す。
(そういえば……)
伊東予備校の事務室で、ゴンドウが嬉しそうに吹聴していた話。
──「タクミさん、スナックの天ぷら持ち帰ってさ、机に足乗っけて叫んだんだぜ。“これが成功者の昼メシだ!”って!」
──出前の天ぷらを見せびらかしながら、「冷めても衣がサックサクなんだ」とドヤ顔していたらしい。
ゴンドウはヘラヘラと笑いながら話していたが、ユウコは内心、冷めた目で聞いていた。
(……おでんとか天ぷらでマウント取る神経って、理解不能)
小さなため息をつき、目の前の天ぷらを一つ口に運ぶ。
──カリッ。
衣は軽く、口の中でふわりとほどけた。
別に誰かに見せびらかすためじゃない。
ましてや、自分が「成功者」だと誇示するためでもない。
ただ、自分のために味わう。
それだけで、十分だった。
食後、テレビをつける。
そこに映っていたのは──
──島田タクミ、炎上中。
カメラの前で、記者たちに囲まれ、声を荒げている。
「俺は悪くない!!」
ニュースのテロップには「横領疑惑のハレンチ予備校幹部」とあった。
ユウコは無言で画面を見つめる。
(……まあ、あの人はずっとああなんだろうな)
虚勢を張って、無理して、結局は自滅する。
そんな生き方しかできない小者たち。
(ま、どうでもいいか)
リモコンを押して、テレビを消す。
カーテンを少し開けると、外は静かな夜だった。
杉林の向こうに、にじんだ月が浮かんでいる。
もう一度、温泉に入ろう。
そう思いながら、ユウコは立ち上がった。
心の中には、何も波立つものはなかった。
──静かに、澄んだ夜が広がっていく。
ー完ー
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