第3話(終):無理をしない贅沢

第2話からのつづき

──四月、ある平日。
沢田ユウコは、北千住駅のホームに立っていた。

特急「リバティけごん」の発車ベルが鳴る。
行き先は、日光。

(たまには一泊くらい、いいか)

座席に腰を下ろし、窓の外をぼんやりと眺める。

平日昼間の特急は空いていて、客層も静かだった。

(これが最高なんだよな)

誰にも干渉されない。誰にもマウントされない。
そんな時間が、ユウコにとって一番のご褒美だった。

宿は、駅から少し離れた小さな旅館。
部屋は純和風。
窓を開ければ、杉の林が広がっている。

荷物を置き、すぐに温泉へ向かった。
内湯に入ると、ふわりと湯気が立ち、肌にまとわりつく。

(……やっぱ温泉はいい)

のぼせる前に湯船を出て、広縁に腰かける。

静かに流れる時間。

誰にアピールするでもない、自分だけの時間。
それこそが、ユウコにとっての「贅沢」だった。

夕食は、旅館の食事処で出された。

──天ぷら御膳。
山菜、海老、キス。

さくさくと軽い衣をまとった天ぷらが、白い皿に並んでいる。

箸を伸ばしながら、ふと思い出す。

(そういえば……)

伊東予備校の事務室で、ゴンドウが嬉しそうに吹聴していた話。

──「タクミさん、スナックの天ぷら持ち帰ってさ、机に足乗っけて叫んだんだぜ。“これが成功者の昼メシだ!”って!」

──出前の天ぷらを見せびらかしながら、「冷めても衣がサックサクなんだ」とドヤ顔していたらしい。

ゴンドウはヘラヘラと笑いながら話していたが、ユウコは内心、冷めた目で聞いていた。

(……おでんとか天ぷらでマウント取る神経って、理解不能)

小さなため息をつき、目の前の天ぷらを一つ口に運ぶ。

──カリッ。

衣は軽く、口の中でふわりとほどけた。

別に誰かに見せびらかすためじゃない。
ましてや、自分が「成功者」だと誇示するためでもない。

ただ、自分のために味わう。
それだけで、十分だった。

食後、テレビをつける。

そこに映っていたのは──

──島田タクミ、炎上中。

カメラの前で、記者たちに囲まれ、声を荒げている。

「俺は悪くない!!」

ニュースのテロップには「横領疑惑のハレンチ予備校幹部」とあった。

ユウコは無言で画面を見つめる。

(……まあ、あの人はずっとああなんだろうな)

虚勢を張って、無理して、結局は自滅する。

そんな生き方しかできない小者たち。

(ま、どうでもいいか)

リモコンを押して、テレビを消す。

カーテンを少し開けると、外は静かな夜だった。
杉林の向こうに、にじんだ月が浮かんでいる。

もう一度、温泉に入ろう。
そう思いながら、ユウコは立ち上がった。

心の中には、何も波立つものはなかった。
──静かに、澄んだ夜が広がっていく。

ー完ー
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