「いいか。社員が“辞めたい”って言い出したら、“おめでとう”って言えばいいんだよ。」
タクミは社長椅子にふんぞり返りながら続ける。
「お前の人生、俺の船から降りるってんなら、せいぜい泳ぎ切ってみなってな」
関東学力増進機構(カンゾウ)の定例会議室。
その日もまた、タクミの“訓示”から始まった。
従業員30名あまり。営業部、教務部、事務、そして電話部隊。
どの部署もタクミの顔色ひとつで人事が動いた。
社内では冗談半分にこう言われていた。
「タクミに嫌われたら、次の日から名簿が配られない」
これは比喩ではない。
営業部が使用する「個人情報リスト」。
それは電子データではなく、名簿屋・ゴンドウが持ってきた個人情報の名簿をコピーしたものだった。
名簿の原本は金庫に保管されており、コピーは毎日、営業スタッフの机に配布される。
誰にどの地域の名簿を配布するかどうかは、すべて塾長・タクミの胸先三寸で決まる。
経理担当だったナイトウは、そんなタクミに最初に逆らった人間だった。
「この支出、何に使われたんですか?」
「ん? 合宿の下見と打ち合わせだよ。悪いか?」
「新宿の…、スナックとキャバクラと…、あとダーツバーも…ですか?」
タクミは、ふてぶてしく笑った。
「合宿ってのは、夜が本番なんだよ、ナイトウ君」
数日後、ナイトウはカンゾウを「円満退職」した。
代わって経理部長に就任したのが、タクミの甥。
一言で言えば、ボンクラな青年だった。
大学も出ておらず、エクセルの操作も怪しい。
だが、タクミにとっては扱いやすく、何より「自由に会社の金を使える」ことが決定的だった。
以降、カンゾウの帳簿は「数字の迷宮」と化した。
合宿経費、教材費、外部講師料、懇親会費──
その実態は、スナック麻奈での飲み代、キャバクラのボトル代、オンラインカジノの“軍資金”、そして出前の高級天ぷらだった。
「あの天丼、冷めても衣サックサクなんだぜ」
そう笑うタクミを、誰も止められなかった。
止めたら、名簿が配られなくなる。
名簿がなければ営業はできない。つまり、クビと同義である。
社員の中には、心底タクミを崇拝している者もいた。
「塾長の営業力は“神”ですから」
「東大の主席ってマジですか? マジだったらヤバいっすね」
特に若手の営業マンは、タクミに心酔していた。
名簿の使い方、トークの切り出し、クロージングの決め台詞まで、すべて彼の「型」だった。
だが一方で、古参の事務スタッフやベテラン講師たちの間には、確実に不信感が漂い始めていた。
「あの人、本当に東大卒なの?」
「経費、完全におかしくない?」
「最近、あの女子大生のバイト、妙に偉そうにしてない?」
しかし、その声は密やかだった。
カンゾウは、まだタクミの王国だったのだ。
ある日の夕方。
タクミは「スナックうたかた」の天ぷらをテイクアウトし、塾長室に戻ると足を机に乗せて叫んだ。
「これが、“成功者の昼メシ”ってやつだ!」
その声が、カンゾウ全体に響いていた。
だがこの頃から、わずかに、だが確実に、塾の“空気”が変わり始めていた──。