大久保の裏通りに、季節外れのおでんを出すスナックがある。
赤提灯ではない。
ネオン管の看板に「うたかた」と書かれた、どこか場末で、昭和風の洒落た店。
天ぷらが名物という変わり種だったが、真夏でも出汁の効いたおでんが美味いと密かに評判だった。
そしてこの店には、もうひとつ“隠れた名物”があった。
カウンターに立つ、文学好きの女子大生・マオである。
「村上春樹が好きなんです。最近の作品は、あんまり響かなくて…」
「はあ? 俺は“ノルウェーの森”しか知らんぞ?」
「え? あれ、中二病の教科書ですよ」
「オレは中二病なのか?」
笑い合うふたりを見て、常連客がひそひそと話す。
「あのオッサン、なんなんだろうな…いつも声だけでけぇし」
「“島田先生”って呼ばれてたけど、教育関係らしいよ。なんか偉いらしいよ」
マオは、最初からタクミに興味を持っていた。
“東大卒・心理学専攻”──そんな自己紹介を本気で信じていたわけではない。
ただ、話し方がうまくて、話を聞いてくれて、お酒をおごってくれる“安心できる大人”だった。
ある晩、酔いが回ったマオがこう言った。
「先生のとこ、バイト募集してないですか? スナックだけじゃ学費も苦しくて」
その場でタクミはカンゾウの総務部に電話を入れた。
「来週から、受付でバイト入れてやってくれや。あ、ちょっと他の子より時給高めでな」
マオはカンゾウに“特別枠”で入り込んだ。
入った翌週から、他のスタッフと違って、塾長室の横にある応接室に勤務した。
「お茶の出し方が丁寧だなぁマオちゃんは〜」
「さすが文学部、字も綺麗やの〜」
そんなタクミの声に、社員たちの苦笑が絶えなかった。
だがタクミは、彼女にますます夢中になっていく。
「講師連中の下で雑用やらせるのはかわいそうだな。あいつら態度悪いからな」
タクミはタバコをくゆらせながら、総務部の部長に低く囁いた。
「あの子、来週から教務の指導部に移してやれや。適材適所っちゅうやつじゃ。部長扱いで頼むわ」
その一言で、マオは“指導部の部長”という肩書きを得た。
それを知った古参スタッフのひとりがつぶやく。
「は? バイトの子が部長…? ありえないだろ」
マオもまた、変わり始めていた。
「○○先生って、保護者からクレーム入ってたんですよね?」
「私、塾長から“進路の窓口は私が主導”って言われてますんで」
まるで、塾全体を仕切るかのような物言い。
スタッフの間では「塾長の女」説が確信に変わり、溜まり場だった喫煙所では連日愚痴が飛び交った。
そんな状況に、ついに妻・アイリが気づく。
タクミが家に戻らない夜が続く。
「今日も生徒の対応で遅くなった」と言いながら、香水の匂いを漂わせて帰宅する。
ある晩、彼女はリビングのソファに正座して、帰宅したタクミを見据えて言った。
「……うたかたって店、どういう店?」
タクミは笑ってごまかそうとしたが、目が泳いでいた。
アイリは、タクミが当時女子高生だった自分に手を出し、大学在学中に結婚したという過去を、思い出していた。
結婚した後も複数の女子生徒と浮気を繰り返していることには薄々勘付いてはいたが、もう我慢の限界だった。
「あなたって、結局…女を道具にしか見てないのね!」
その日から、ふたりは口をきかなくなった。
1ヶ月後、アイリは家を出た。
タクミは離婚届にサインしながらも、その理由をこう語っていた。
「ま、俺がモテすぎたんだろ。男の業(ごう)ってやつよ」
そう言って、いつものように豪快に笑った。
だが笑いの奥にあったのは──、ほんのわずかな、焦りだった。