Wはしばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「シノダさん、以前、宇宙飛行士の野口聡一さんの話を聞いたことがありますか?」
「え? 宇宙飛行士……ですか?」
「はい。彼が地球に帰還したとき、長い間、疎外感に苦しんだそうです。宇宙という極限の環境で任務を終えた後、地球での生活が急に色褪せて見えた、と。スポーツ選手や芸能人にも似た現象が見られます。長く特別な舞台にいた人が、日常に戻ったときに感じる“空虚感”です」
シノダの眉が少し動いた。
「そうか……それ、分かる気がします。俺もグラウンドでプレーしてたときは、毎日が生き生きしてました。でも今は、ジムで教えてても、どこか空虚というか……」
Wはその言葉を受けて、少しだけ声のトーンを変えた。
「かつてのステージに戻ろうとすれば、必ずその空虚さと向き合うことになります。その場所では、どうしても過去の自分と比べてしまうからです」
「じゃあ、どうすれば……?」
「新しいフィールドを見つけることです。かつての自分をリセットできる場所。ゼロから挑戦することで、再び“ヒーロー”になれる舞台を作るんです」
シノダは少し戸惑ったように目を細めた。
「ゼロからって……もう遅いんじゃないですか?」
シノダは半ば笑うように首を振り、現実味のなさを口にした。
「そんなことはありません。例えば、最近だと元お笑い芸人がYouTuberになって、お笑い時代よりも人気が出ているケースもあります。キャンプ系YouTuberや、料理専門の動画を発信して成功している元芸人もいます」
「そういえば、最近よく見ますね……」
「ドリフターズも、元々は実力派のバンドでした。しかし、コメディグループとしての成功が大きすぎて、いつしか“お笑い集団”のイメージが定着しました。でも、あの多才さがあるからこそ、時代が変わっても生き残ったのです」
「確かに……」
「スポーツ選手でも同じです。元ボクサーがラーメン屋を開いたり、元サッカー選手が畑を耕したり。新しい分野で再び活躍することで、過去の成功に縛られずに生きていくことができる」
シノダはしばらく考え込み、ふと口を開いた。
「新しいフィールドか……。俺、ずっと“元プロ野球選手”って肩書きにしがみついてたかもしれません。それを捨てるのが怖かったんだな……」
その独白は、重しを外すように静かに漏れ出た。
「過去の栄光があるからこそ、新しい挑戦は怖く感じるものです。でも、シノダさんには培ってきた“身体を動かす力”があります。それを活かしつつも、異なるフィールドで再び活躍できる可能性は無限にあります」
「……たとえば、何かありますか?」
「たとえば、料理教室に通って、スポーツ栄養学を取り入れた食事を発信するとか。野球選手時代に培った体力管理のノウハウを活かすのも一つの手です。また、筋力トレーニングをアレンジして、子ども向けの運動教室を作るのも面白いでしょう」
シノダの表情が少しずつ明るくなっていく。
「そうか……スポーツ以外でも、できることはあるんだな……」
「新しいステージに立てば、また誰かのヒーローになれます」
Zoom画面の向こうで、シノダが深く息を吐き出した。
「先生、ありがとうございました。なんか、スッキリしました」
「どういたしまして。何か進展があれば、またお聞かせください」
シノダが画面越しに軽く頭を下げ、Zoomが終了する。
アバターが消え、和波知良の部屋に静寂が戻った。
ちょうどスマホに入金通知が届いた。
“入金確認:篠田敬吾様 10万円”
和波知良(わなみかずよし)はエスプレッソマシンのスイッチを入れ、ショートケーキをテーブルに置いた。
彼はエスプレッソマシンのスイッチを入れ、ショートケーキをテーブルに置く。
ソファに腰を下ろした瞬間、古傷の足がじわりと重さを訴えた。
和波は短く息をつき、視線を落とす。
「……ヒーローか」
ぽつりと呟き、フォークを手に取った。
ショートケーキの甘さが、少しだけ和波の頬を緩ませた。
甘さが口に広がると同時に、痛みは静かに奥へ沈んでいった。
第14話へつづく