オンライン会議の通知音が鳴り、画面が切り替わる。
そこに現れたのは開業医・上杉隆光(うえすぎたかみつ)の姿だった。
背景は「上杉医院」改め「上杉クリニック」の応接室。
以前は昭和の名残を引きずった古びた壁紙と安っぽいソファだったが、いま映っているのは張り替えられた淡いクリーム色の壁紙に、革張りのソファ。
ガラスのローテーブルには季節の花が飾られ、どこかホテルラウンジを思わせる雰囲気が漂っていた。
地方の病院らしい素朴さは残るが、「少しデラックスになった」と感じさせるその空間は、最近若い女性患者が増え、資金が潤沢になってきたことを物語っていた。
「いやぁ、先生。この前も本当に助かりました。急に時間を取っていただいて──」
和波知良(わなみかずよし)のアバター、フクロウのWはゆるやかに揺れ、言葉を発しない。
ただ、ひたすら相手の声を受け止めている。
「今回はね……息子の進路のことで悩んでまして。4浪目です。いや、もちろん5浪、6浪しても構いません。うちにはそのくらいの学費を用意する余裕はあります。でも……」
Wは無言で揺れ続ける。
「やはり、世間体というものもあります。いつまでも浪人を続けていると“負け癖”がついてしまうんじゃないかと心配でしてね」
父親らしい自分を確かめるかのような口ぶりだった。
「もちろん医学部に入ってほしいんです。医者にならなければ、私の病院──いや、クリニックを継いでもらえない。でも、医学部はどこも競争が激しい。年々志願者が増えて、倍率も上がっている」
言葉を継ぎ足すたびに、希望と不安がせめぎ合い、語調は揺れ動いていた。
「息子の学力も不安です。どんな大学の医学部に合格するにも東京大学の理科I類やII類に合格できるような学力が必要と言われていますが、息子がそこまで達しているかどうか……」
彼は努めて淡々と語ろうとしていたが、声の端々に不安がにじんでいた。
「もちろん、医学部以外にも選択肢はあります。理学部、薬学部、歯学部……そのあたりなら、息子の成績でも合格できる大学があるでしょう。でも、そうなると医者にはなれない」
Wは静かにまばたき一度。
「いやぁ……とにかく早く大学生になってほしいんです。医学部でなくてもいい……いや、良くはない。でも、まずは“大学に合格した”という成功体験を積んでもらいたいんです。そうすれば自信もつくでしょうし……」
言葉の端々に、父親としての願望と同時に、自分自身を納得させようとする必死さがにじんでいた。
「でも、医学部以外の学部に行かせたら……医者になれない……ああ、先生、どうしたものでしょうかねぇ?」
しばしの沈黙のあと、Wは静かに口を開いた。
「転学という手段を考えたことはありますか?」
「転学……?」
「はい。歯学部や薬学部に一度合格し、その後に医学部に転学する方法があります。同一大学内であれば転学部制度がある場合もありますし、他大学への編入も可能です。」
「転学……なるほど。そうか、その手もあるか!」
ウエスギは急に目を輝かせた。
「歯学部もある大学なら、まずは歯学部に合格させておいて……最悪でも歯科医師にはなれる。そこから医学部に転学できれば最高じゃないか!」
声が一段高くなり、興奮を抑えきれない調子が画面越しにも伝わってきた。
「しかも、転学試験は“内部試験”や“編入”として行われるから、普通の入試よりも競争は少ない……ああ、なるほど、なるほど! そうか、その手があったか!」
思考は一気に加速し、目の前に新しい未来が開けたかのような熱気が漂った。
「いやぁ、先生、ありがとうございます!これで来年は浪人を重ねる心配もなくなりました。まずは歯学部か薬学部に合格させ、そこで“大学に合格した”という成功体験を積ませて……」
話しながら思考がどんどんまとまっていく様が伝わってくる。
「…そして、2年生あたりで医学部に転学のタイミングを狙う……これはいい、いやぁ、これはいいぞ!」
画面がフェードアウトし、Zoomの接続が切れる。
フクロウのアバターもまた、すっと姿を消した。
やがて和波知良の部屋が映し出される。
テーブルには、カフェモカと、香ばしく焼き上げられたフィナンシェ。
和波はスプーンでカフェモカを軽くかき混ぜ、甘い香りを楽しみながら口に含む。
いつもならZoomの通話終了直後に振込通知が届くが、その日は何もなかった。
和波は特に気にすることもなく、フィナンシェをひと口。
二日後。
和波のスマートフォンが震えた。
“振込完了通知 ¥5,000,000”の文字。
画面の下には“上杉高充(ウエスギ・タカミツ)”の名がある。
和波は目を見開き、やがて微笑んだ。
アールグレイをひと口、そしてレモンタルトを噛みしめる。
爽やかな酸味が、不思議とほんの少し温かく感じられた。
第18話へつづく