第22話:やさしさの副作用

夜11時過ぎ。

Zoomの画面に映ったのは、白髪が目立ち始めた勘解由小路康夫(かでのこうじやすお)だった。

「ワナミ先生……夜分にすみません」

その声は少しかすれ、目の下には薄くクマが滲んでいた。
照明のせいではない、“疲れた人”の顔だった。

ワナミは軽く頷き、「大丈夫ですよ」とだけ返した。

少しの間、沈黙が流れた。

「こうして直接お話しするのは初めてですが……実はずっと、憧れていたんです」

不意にカデノコウジが照れくさそうに言った。

「僕がカンゾウに入った頃、もう先生はいらっしゃいませんでしたが……“ワナミって人がすごかった”“たった2年しかいなかったのに、やたら印象に残ってる”って、当時の講師や生徒の間でよく聞いてました。鋭いけど嫌味じゃない、無駄なことは言わないけど核心を突く──そんな伝説の人だったって」

ワナミは微かに笑った。

「そんなたいそうなもんじゃないですよ。あそこにいたのは、ほんの2年だけです」

「でも、その2年がすごかったって話は、何人もの人から聞きましたよ。先生の授業は一度受けてみたかったなぁ……」

カデノコウジは少し頬を赤らめたような顔で、画面越しに頭を下げる。

「……だから、今日こうしてお話しできるだけでも、本当にありがたいんです。正直に言えば、ずっと“相談したい”と思っていました」

ワナミは目を細め、軽くうなずく。

その目は“過去”を懐かしむようでもあり、“いま”に寄り添うようでもあった。

ワナミは、わずかに目を伏せた。

カデノコウジの言葉が、遠い記憶を静かに呼び覚ます。

──最後まで振り返らなかったあの背中。
無理に励ますこともできず、ただ見送るしかなかった春。

そして、その直後に訪れた、あの夜の事故。
二重の痛みを抱えたまま、ワナミのカンゾウでの日々は終わった。

カデノコウジはゆっくりと話し始めた。

今、自分が働いている通信制高校のこと。
不登校や引きこもりの生徒たちが、毎日のように寄せてくる悩みや葛藤。
それに寄り添いすぎて、気づけば自分の心が疲れ果てていること。
最近は不眠が続き、胃の痛みも増えてきたこと。

「……なんというか、“もうひとつのカンゾウ”をやってるような気がするんです。いや、あそこまで問題児が集まっていたわけじゃないんですが……“社会のはざま”にいる子たちと向き合う日々は、あの頃とすごく似ていて」

くすっと苦笑いを浮かべる。

「カンゾウ──“関東学力増進機構”。思えば、いろんな生徒がいましたよね。東大志望のエースから、学校に馴染めず再出発しようとする子まで。島田塾長の、あの……今思えば無茶な経営方針のもとで、現場は本当に慌ただしかった」

言葉を選ぶように一呼吸置いて、笑う。

「でも、あそこには“何かを変えよう”とする熱がありました。……もちろん、塾長が派手にやりすぎて、いろいろありましたけどね。そのあと“メディカルデラックス”というハイソな予備校に移って、“名誉総長”なんて肩書きまでつけて……また自爆したって話、聞きました」

目を伏せ、ふっと真顔に戻る。

「でも、シマダさんにはエネルギーがあった。承認欲求の塊みたいな人だったけど、だからこそ“人を動かす力”はあったのかもしれません……。僕はどうしても、逆なんですよね。生徒の痛みを背負い込みすぎて、気づけば自分の方がすり減っていく」

そこで、少し声を落とす。

「……ワナミ先生。どうしたら、もっと“メンタルが強く”なれるんでしょうか?」

画面越しの沈黙。

ワナミはゆっくりと、カフェオレをひと口すすった。

ワナミは少し考え込むように視線を落とし、やがて静かに言葉を紡いだ。

「“知らねぇ”って言葉、使ったことあります?」

「えっ……?」

「“知らねぇ”とか、“関係ねぇ”とか」

「そ、それは……あまりにも無責任な気がして……。生徒を見捨てるようなことを……」

「見捨てるってわけじゃないんですよ」

ワナミは、カップの中のラテをそっと置き、続けた。

「でも……それは“優しくない”んじゃないですか?」

ワナミは一瞬だけ目を伏せ、目を細めながらゆっくりと口を開いた。

「優しさって、“全部を背負うこと”じゃないんです。“隣に立ち続けること”。それができれば十分なんですよ」

カデノコウジは、まだ納得がいかないようだった。

「カデノコウジ先生、フリースタイルバトルってご存じですか?」

「え……ラップの、ですか?」

「そう。FORKというラッパーがいるんですが、彼が強い理由のひとつは、相手の攻撃的な言葉に対してよく“知らねぇ”と返すからなんです」

「……“知らねぇ”?それだけで?」

「はい。たった一言。でも、相手の言葉に飲まれず、自分と相手の間に線を引くんです。その瞬間、相手の攻撃は効かなくなる。“俺はそこにいない”“お前の土俵じゃ戦わない”って宣言になる。あれは無敵になる言葉ですよ」

カデノコウジは戸惑いを浮かべた。

「はあ、それでも、やっぱり生徒相手に“知らねぇ”なんて……さすがに無責任じゃないですか?」

ワナミは首を横に振る。

「もちろん、そのまま口に出せって話じゃありません。大事なのは“心の中で言うこと”。境界線を引いて、引きずり込まれないために」

「境界線……」

「そう。“全部を抱える”のは優しさじゃない。隣に立ち続けるためには、自分を守る線が必要なんです」

「知らねぇ」「関係ねぇ」──心の境界線を引くということ

「じゃあ、質問を変えますね。カデノコウジ先生は、今、学校の先生ですよね?」

ワナミの問いかけに、カデノコウジは、やや戸惑いながらもうなずいた。

「はい、通信制高校で……まあ、正確には“教員”じゃなく“支援員”という立場なんですが、生徒と日々接しています」

「その生徒たちって、何かしら事情があるんですよね?」

「ええ、不登校、引きこもり、家庭環境……様々です。誰一人として“問題のない子”なんていません」

「で、全部抱えてしまってる、と」

……図星だったのだろう。カデノコウジは、少しだけ口を開いて閉じた。代わりに、短く「はい……」とだけ答えた。

ワナミは、静かにうなずいたあと、スッと目線を少しだけ落とし、こう言った。

「私も、かつての職場で“抱えすぎてた人”を何人も見てきました。休職したり、突然来なくなったり。……でも、そういう人に限って、本当に“良い先生”だった。でも境界線引くことができなかった。いや、境界線を引くことは罪だと思っていたのかもしれません」

カデノコウジは、まるで自分のことだと思った。

それを見越したかのようにワナミは続けた。

「“知らねぇ”“関係ねぇ”って、冗談みたいだけど。あれ、実は心の中で境界線を引くための魔法の言葉なんです」

「……心の、境界線……」

「そう。心の内と外を区別すること。それができる人だけが、長くこの仕事を続けられる。」

カデノコウジは、深く頷いた。

何かを思い出すように、目を閉じて、息を吸った。

「……“知らねぇ”……“関係ねぇ”……ですか」

「声に出すと、もっと効きますよ」

「いやぁ……それはまだ、照れますけど……。でも、今日お話できて、なんだか少し……軽くなった気がします」

画面の向こう、カデノコウジの表情は、どこか穏やかになっていた。

しばらく無言のまま、深く息を吐き出す。

Zoomの画面が静かにフェードアウトし、接続が切れる。
ワナミは小さくうなずき、皿の上のクリームどら焼きに手を伸ばした。

第23話へつづく