夜11時過ぎ。
Zoomの画面に映ったのは、白髪が目立ち始めた勘解由小路康夫(かでのこうじやすお)だった。
「ワナミ先生……夜分にすみません」
その声は少しかすれ、目の下には薄くクマが滲んでいた。
照明のせいではない、“疲れた人”の顔だった。
ワナミは軽く頷き、「大丈夫ですよ」とだけ返した。
少しの間、沈黙が流れた。
「こうして直接お話しするのは初めてですが……実はずっと、憧れていたんです」
不意にカデノコウジが照れくさそうに言った。
「僕がカンゾウに入った頃、もう先生はいらっしゃいませんでしたが……“ワナミって人がすごかった”“たった2年しかいなかったのに、やたら印象に残ってる”って、当時の講師や生徒の間でよく聞いてました。鋭いけど嫌味じゃない、無駄なことは言わないけど核心を突く──そんな伝説の人だったって」
ワナミは微かに笑った。
「そんなたいそうなもんじゃないですよ。あそこにいたのは、ほんの2年だけです」
「でも、その2年がすごかったって話は、何人もの人から聞きましたよ。先生の授業は一度受けてみたかったなぁ……」
カデノコウジは少し頬を赤らめたような顔で、画面越しに頭を下げる。
「……だから、今日こうしてお話しできるだけでも、本当にありがたいんです。正直に言えば、ずっと“相談したい”と思っていました」
ワナミは目を細め、軽くうなずく。
その目は“過去”を懐かしむようでもあり、“いま”に寄り添うようでもあった。
ワナミは、わずかに目を伏せた。
カデノコウジの言葉が、遠い記憶を静かに呼び覚ます。
──最後まで振り返らなかったあの背中。
無理に励ますこともできず、ただ見送るしかなかった春。
そして、その直後に訪れた、あの夜の事故。
二重の痛みを抱えたまま、ワナミのカンゾウでの日々は終わった。
カデノコウジはゆっくりと話し始めた。
今、自分が働いている通信制高校のこと。
不登校や引きこもりの生徒たちが、毎日のように寄せてくる悩みや葛藤。
それに寄り添いすぎて、気づけば自分の心が疲れ果てていること。
最近は不眠が続き、胃の痛みも増えてきたこと。
「……なんというか、“もうひとつのカンゾウ”をやってるような気がするんです。いや、あそこまで問題児が集まっていたわけじゃないんですが……“社会のはざま”にいる子たちと向き合う日々は、あの頃とすごく似ていて」
くすっと苦笑いを浮かべる。
「カンゾウ──“関東学力増進機構”。思えば、いろんな生徒がいましたよね。東大志望のエースから、学校に馴染めず再出発しようとする子まで。島田塾長の、あの……今思えば無茶な経営方針のもとで、現場は本当に慌ただしかった」
言葉を選ぶように一呼吸置いて、笑う。
「でも、あそこには“何かを変えよう”とする熱がありました。……もちろん、塾長が派手にやりすぎて、いろいろありましたけどね。そのあと“メディカルデラックス”というハイソな予備校に移って、“名誉総長”なんて肩書きまでつけて……また自爆したって話、聞きました」
目を伏せ、ふっと真顔に戻る。
「でも、シマダさんにはエネルギーがあった。承認欲求の塊みたいな人だったけど、だからこそ“人を動かす力”はあったのかもしれません……。僕はどうしても、逆なんですよね。生徒の痛みを背負い込みすぎて、気づけば自分の方がすり減っていく」
そこで、少し声を落とす。
「……ワナミ先生。どうしたら、もっと“メンタルが強く”なれるんでしょうか?」
画面越しの沈黙。
ワナミはゆっくりと、カフェオレをひと口すすった。
ワナミは少し考え込むように視線を落とし、やがて静かに言葉を紡いだ。
「“知らねぇ”って言葉、使ったことあります?」
「えっ……?」
「“知らねぇ”とか、“関係ねぇ”とか」
「そ、それは……あまりにも無責任な気がして……。生徒を見捨てるようなことを……」
「見捨てるってわけじゃないんですよ」
ワナミは、カップの中のラテをそっと置き、続けた。
「でも……それは“優しくない”んじゃないですか?」
ワナミは一瞬だけ目を伏せ、目を細めながらゆっくりと口を開いた。
「優しさって、“全部を背負うこと”じゃないんです。“隣に立ち続けること”。それができれば十分なんですよ」
カデノコウジは、まだ納得がいかないようだった。
「カデノコウジ先生、フリースタイルバトルってご存じですか?」
「え……ラップの、ですか?」
「そう。FORKというラッパーがいるんですが、彼が強い理由のひとつは、相手の攻撃的な言葉に対してよく“知らねぇ”と返すからなんです」
「……“知らねぇ”?それだけで?」
「はい。たった一言。でも、相手の言葉に飲まれず、自分と相手の間に線を引くんです。その瞬間、相手の攻撃は効かなくなる。“俺はそこにいない”“お前の土俵じゃ戦わない”って宣言になる。あれは無敵になる言葉ですよ」

カデノコウジは戸惑いを浮かべた。
「はあ、それでも、やっぱり生徒相手に“知らねぇ”なんて……さすがに無責任じゃないですか?」
ワナミは首を横に振る。
「もちろん、そのまま口に出せって話じゃありません。大事なのは“心の中で言うこと”。境界線を引いて、引きずり込まれないために」
「境界線……」
「そう。“全部を抱える”のは優しさじゃない。隣に立ち続けるためには、自分を守る線が必要なんです」
「知らねぇ」「関係ねぇ」──心の境界線を引くということ
「じゃあ、質問を変えますね。カデノコウジ先生は、今、学校の先生ですよね?」
ワナミの問いかけに、カデノコウジは、やや戸惑いながらもうなずいた。
「はい、通信制高校で……まあ、正確には“教員”じゃなく“支援員”という立場なんですが、生徒と日々接しています」
「その生徒たちって、何かしら事情があるんですよね?」
「ええ、不登校、引きこもり、家庭環境……様々です。誰一人として“問題のない子”なんていません」
「で、全部抱えてしまってる、と」
……図星だったのだろう。カデノコウジは、少しだけ口を開いて閉じた。代わりに、短く「はい……」とだけ答えた。
ワナミは、静かにうなずいたあと、スッと目線を少しだけ落とし、こう言った。
「私も、かつての職場で“抱えすぎてた人”を何人も見てきました。休職したり、突然来なくなったり。……でも、そういう人に限って、本当に“良い先生”だった。でも境界線引くことができなかった。いや、境界線を引くことは罪だと思っていたのかもしれません」
カデノコウジは、まるで自分のことだと思った。
それを見越したかのようにワナミは続けた。
「“知らねぇ”“関係ねぇ”って、冗談みたいだけど。あれ、実は心の中で境界線を引くための魔法の言葉なんです」
「……心の、境界線……」
「そう。心の内と外を区別すること。それができる人だけが、長くこの仕事を続けられる。」
カデノコウジは、深く頷いた。
何かを思い出すように、目を閉じて、息を吸った。
「……“知らねぇ”……“関係ねぇ”……ですか」
「声に出すと、もっと効きますよ」
「いやぁ……それはまだ、照れますけど……。でも、今日お話できて、なんだか少し……軽くなった気がします」
画面の向こう、カデノコウジの表情は、どこか穏やかになっていた。
しばらく無言のまま、深く息を吐き出す。
Zoomの画面が静かにフェードアウトし、接続が切れる。
ワナミは小さくうなずき、皿の上のクリームどら焼きに手を伸ばした。
第23話へつづく