──広瀬春香(ひろせ・はるか)。
その名前が、誰かの記憶に残ったことは、たぶん一度もない。
最初に名前を呼ばれた記憶は、小学校の担任からだった。
「ヒロセさんは、いつも返事が小さいわね」
クラスがざわつく中で、その一言だけが妙に耳に残った。
東京都江戸川区、団地の5階育ち。
父親はいない。
物心ついたときには、すでに母ひとり。
飲食店のホール係や工場の夜勤、たまにネットワークビジネス。
母はとにかく、いろいろやっていた。
いつも口癖のように言っていた。
「いい? 女は勉強して、自分の力で生きていかなきゃダメなんだよ」
──なら、なぜその母は男に人生を壊されたのだろうか。
子ども心に、その疑問がじわりと沈殿していた。
中学の成績は悪くなかった。小テストはほぼ満点。内申点もそこそこ。
そして、地元の都立高校に進学した。レベルは中堅ランク。
制服がダサくて、髪を染めてる子が多い、そんな学校だ。
「先生、どうせ推薦とか無理っすよねー」
「今日課金しすぎてやばい。今月マック行くの無理」
昼休み、そう言ってスマホをいじる友だちの横で、ハルカは文庫本を読んでいた。
駅前書店で買った太宰。なんとなく、「この人も黙ってる側だったんだろうな」と思えた。
部活は帰宅部。
ひとりで帰る駅のホームに、チカチカ光るコンビニの看板が見える。
夕暮れの匂いと排気ガス。カラスの鳴き声。
──それが、毎日の「友だち」だった。
そんなある日の夕方、一本の電話がかかってきた。
母親は夕食の支度中だったので、ハルカが電話に出た。
「あっ、こちら関東学力増進機構のサタケと申します!」
電話の向こうの40代くらいの男の声は、妙に明るく、なれなれしい口調だった。
なんでも、「カンゾー」と呼ばれる予備校が体験授業のキャンペーンをしているのだという。
「今ちょうど体験授業の時期でしてね、いや、マジで一回見てほしいんです」
「絶対、後悔させませんから! 見学だけでも全然OKです。交通費、出しますよ!」
──まくし立てるような営業トークに、ハルカは少し笑ってしまった。
「まあ……行くだけならタダだし、行ってみるか」
こうして、興味半分で参加したカンゾーの説明会。
体験授業の案内もされ、翌日、ハルカはカンゾーの体験授業に参加することになった。
古文の先生は、ちょっとクセが強かったけど、語呂合わせのセンスが面白かった。
授業の後は自習室に案内され、大学生のチューターから英語を小1時間教えてもらった。
チューターは爽やかな大学生で、教え方もわかりやすかった。
「悪くないかも」
そう思った。
帰り際、案内を担当した営業の男・サタケに質問した。
「……あの、自習室も、使っていいんですか?」
「もちろん。うちは授業がない日も、自習室だけ来る子、多いですよ」
サタケは続ける。
「さっきのような大学生のチューターも毎日いるし、わからないとこ、聞き放題。しかも無料!」
「無料?」
「ええ、ほとんどがうちの卒業生なんですよ。合格したあと、お礼奉公でバイトに来てるんです」
「お礼奉公?」
「時給は高くないですけど、みんな、恩返しって言ってくれてます」
──恩返し。そんな単語、聞いたのはいつぶりだろう。
母は、パート代と祖母からの仕送りで、かろうじて家計を保っていた。
ヘソクリを出すか悩んでいた様子だったが、カンゾーの見学から帰った夜、こう言った。
「……やるなら、とことんやりな。ここで中途半端にやるくらいなら、最初からやめな」
それは、母なりの覚悟だった。
──こうして、ハルカはカンゾーへの入塾を決めた。
ハルカは、地味なシャツとジーンズで通った。
ネイルはいつも綺麗にしていた。そこだけは、彼女の聖域だった。
そんなある日、質問をしようと自習室でチューターを探していたとき──
「おや? 現代文の質問か?」
背後で大きな声がした。
声をかけてきたのは中年男性。
スーツにラガーシャツ、オールバックの髪に、でっぷりした腹。
「よかったらオレが教えてやろうか?」
案内された部屋は塾長室だった。
部屋のドアに貼られたプレートには、こう書かれていた。
「代表取締役・塾長 島田巧」
ハルカと、島田タクミの、邂逅だった──
第2話へつづく