第2話:塾長室の扉

第1話からのつづき

島田タクミ──

初めて出会ったとき、ハルカはその存在感に目を奪われた。

185センチの巨体に、響く大声。

ラガーシャツの襟を立て、胸元には金色のネックレスがちらついている。

とても大学進学塾の「長」とは思えぬ、型破りな威圧感だった。

「現代文、質問かい?」

第一声は、やけにフレンドリーだった。

でも、その笑みの奥には、どこか得体の知れない「圧」があった。

「……はい。文中の比喩表現のところが、ちょっと……」

「お、そこか。──いい質問だ」

答えた島田は、どこからともなく赤ペンを取り出し、机の端に置かれた問題文のコピーにスラスラと書き込みを始めた。

「これね、“雪”は寒さじゃなくて“孤独”の比喩なのよ。作者が“自分の部屋に雪が降った”って表現したのは、外との断絶を表してんの。──わかる?」

「……うん」

「“うん”じゃなくて“はい”って言いな。受験の世界は、素直なやつが伸びるから」

──はい。

その瞬間、ハルカのなかで何かが切り替わった。

この人、怖い。
でも、頼れるかもしれない。

その日を境に、ハルカは定期的に塾長室をノックするようになった。

島田タクミは、塾長室に「あえて」在室していることが多かった。

「──今どきの子は、聞かれなきゃ話さない。だったらオレから声かけりゃいいのよ」

塾長が生徒対応するのは、他塾では珍しかったが、カンゾウではそれが普通だった。

そして島田は、実際に対応が上手かった。

・どの大学のどの学部を目指しているのか
・学校の内申(評定)はどうか
・自宅では集中できるか
・親はどんなタイプか
・どんな先生が好きか
・どんな異性がタイプか

──質問は、自然に、深くなる。

ハルカも、最初はテキストの質問だけだった。

けれど、次第に「勉強の相談」になり、「将来の話」になり、やがて、「最近の悩み」になっていった。

塾長室の椅子に座る時間が、少しずつ長くなる。

「うちはね、“勉強”だけじゃなくて、“人生”教えてんのよ」

そう、島田は語る。

昭和の受験生はもっと気合いがあった、とか、親のスネかじってるだけじゃ、医者にはなれない、とか。

──でも、不思議だった。

そんな説教めいた言葉すら、どこか嫌じゃなかった。

母とは違う。
先生とも違う。
同級生とはまったく違う。
島田タクミは、ハルカにとって得体の知れぬ引力を持つ大人だった。

ある日、ハルカが塾長室に顔を出すと、島田が一枚の紙を手にしていた。

「お、ちょうど良かった。──これ、うちのテストの結果。ハルカ、だいぶ偏差値上がってるよ」

「……ほんとに?」

「ウソついてどうすんの。オレは東大卒だよ?」

──その“冗談”が、最初の頃より少しだけ柔らかく聞こえた。

そして、帰り際。

ふと島田が言った。

「……なあ、お前さ。髪、黒いままの方がいいぞ。お前は、そっちの方が似合う」

「え?」

「勉強できる女ってのは、それだけで目立つんだよ。無理して周りに合わせんな」

──目立つ、なんて言われたのは初めてだった。

嬉しい、わけじゃない。

でも、忘れられない。

「……はい」

──そう答えた声は、少しだけ、大きくなっていた。

カンゾーの帰り道、ハルカはコンビニでホットミルクティーを買った。

缶の表面に残った温もりを、指先で感じながら歩く。

団地の灯りが、いつもより少しだけ“やわらかく”見えた。

──あの人は、何を考えてるんだろう。

──あの人は、どこまでが本気で、どこまでが“演技”なんだろう。

けれど、ハルカはまだ知らなかった。

その“塾長”という存在が──
やがて、自分の人生に、大きな波紋を落としていくことを。

第3話へつづく