第1話からのつづき
島田タクミ──
初めて出会ったとき、ハルカはその存在感に目を奪われた。
185センチの巨体に、響く大声。
ラガーシャツの襟を立て、胸元には金色のネックレスがちらついている。
とても大学進学塾の「長」とは思えぬ、型破りな威圧感だった。
「現代文、質問かい?」
第一声は、やけにフレンドリーだった。
でも、その笑みの奥には、どこか得体の知れない「圧」があった。
「……はい。文中の比喩表現のところが、ちょっと……」
「お、そこか。──いい質問だ」
答えた島田は、どこからともなく赤ペンを取り出し、机の端に置かれた問題文のコピーにスラスラと書き込みを始めた。
「これね、“雪”は寒さじゃなくて“孤独”の比喩なのよ。作者が“自分の部屋に雪が降った”って表現したのは、外との断絶を表してんの。──わかる?」
「……うん」
「“うん”じゃなくて“はい”って言いな。受験の世界は、素直なやつが伸びるから」
──はい。
その瞬間、ハルカのなかで何かが切り替わった。
この人、怖い。
でも、頼れるかもしれない。
その日を境に、ハルカは定期的に塾長室をノックするようになった。
島田タクミは、塾長室に「あえて」在室していることが多かった。
「──今どきの子は、聞かれなきゃ話さない。だったらオレから声かけりゃいいのよ」
塾長が生徒対応するのは、他塾では珍しかったが、カンゾウではそれが普通だった。
そして島田は、実際に対応が上手かった。
・どの大学のどの学部を目指しているのか
・学校の内申(評定)はどうか
・自宅では集中できるか
・親はどんなタイプか
・どんな先生が好きか
・どんな異性がタイプか
──質問は、自然に、深くなる。
ハルカも、最初はテキストの質問だけだった。
けれど、次第に「勉強の相談」になり、「将来の話」になり、やがて、「最近の悩み」になっていった。
塾長室の椅子に座る時間が、少しずつ長くなる。
「うちはね、“勉強”だけじゃなくて、“人生”教えてんのよ」
そう、島田は語る。
昭和の受験生はもっと気合いがあった、とか、親のスネかじってるだけじゃ、医者にはなれない、とか。
──でも、不思議だった。
そんな説教めいた言葉すら、どこか嫌じゃなかった。
母とは違う。
先生とも違う。
同級生とはまったく違う。
島田タクミは、ハルカにとって得体の知れぬ引力を持つ大人だった。
ある日、ハルカが塾長室に顔を出すと、島田が一枚の紙を手にしていた。
「お、ちょうど良かった。──これ、うちのテストの結果。ハルカ、だいぶ偏差値上がってるよ」
「……ほんとに?」
「ウソついてどうすんの。オレは東大卒だよ?」
──その“冗談”が、最初の頃より少しだけ柔らかく聞こえた。
そして、帰り際。
ふと島田が言った。
「……なあ、お前さ。髪、黒いままの方がいいぞ。お前は、そっちの方が似合う」
「え?」
「勉強できる女ってのは、それだけで目立つんだよ。無理して周りに合わせんな」
──目立つ、なんて言われたのは初めてだった。
嬉しい、わけじゃない。
でも、忘れられない。
「……はい」
──そう答えた声は、少しだけ、大きくなっていた。
カンゾーの帰り道、ハルカはコンビニでホットミルクティーを買った。
缶の表面に残った温もりを、指先で感じながら歩く。
団地の灯りが、いつもより少しだけ“やわらかく”見えた。
──あの人は、何を考えてるんだろう。
──あの人は、どこまでが本気で、どこまでが“演技”なんだろう。
けれど、ハルカはまだ知らなかった。
その“塾長”という存在が──
やがて、自分の人生に、大きな波紋を落としていくことを。
第3話へつづく