第3話:勉強、好きかもしれない

第2話からのつづき

──朝、少しだけ早起きしてノートを開く。

そんな自分に、ハルカはほんの少し驚いた。

カンゾーに入塾してから一ヶ月。
生活が、変わった。

朝は軽く英単語を見てから登校。
学校の授業中も、先生の話に集中しているふりではなく、本当に集中していた。

地元の公立高校の空気は、相変わらずだった。

「うちの担任、マジでやる気なくね?」

「てかさ〜、あのアニメ観た?あれ神回すぎた!」

そんな教室の雑談を横目に、ハルカは机の下で古文の単語帳をめくっていた。

──私、なんで勉強してんだろう。
ふと、そんな疑問が浮かんだ。

東大に行きたいわけじゃない。
医者になりたいわけでもない。

けれど──
「このまま流されて終わりたくない」という想いだけは、強くなっていた。

それはたぶん、あの塾長のせいだった。

島田タクミ。
不思議な人だった。

いつも声が大きくて、スーツの下はラガーシャツ。
ゴールドの太いネックレスが見えてるのに気にする様子もなく、堂々としていた。

何より、勉強の話をしていても、人間の話をしているような気がした。

「人生ってのは、いつでも勝ち負けじゃない。 けどな、逃げないやつが最後に残るんだよ」

その言葉が、ずっと耳に残っていた。

ある日のこと──

ハルカは、いつもの通りカンゾウの自習室で勉強をしていた。

チューターに質問しようと手を挙げかけたとき、塾長室のドアが少しだけ開いていた。

中では、島田が誰かと電話をしていた。

「──いや、だからさ。こっちの数字が出てんのよ。わかってる?数字ってのは信頼なんだよ」

ビジネスの話らしかった。
けれど、その押しの強さすら、ハルカにはどこか心地よく感じられた。

塾長室のドアをノックしたとき、島田は電話を切って、こちらを向いた。

「おう、どうした。現代文か?」

「……はい。記述のところが、どう書いていいかわからなくて」

「いいねぇ、“わからない”ってのは成長の証だ」

そう言って、島田は椅子を勧めた。

「──“好き”って感情は、な、言葉じゃ表しきれないんだよ」

「え?」

「“好き”ってのは、相手の声が聞きたいとか、笑ってほしいとか、いろいろあるだろ。 だけど、それを“文章”にするときは、全部の気持ちを詰め込んじゃダメなんだよ。 伝えたいことはひとつだけ。あとは“文の型”で整えるんだ。……ほら、この答案、読んでみ?」

差し出された模範解答は、シンプルだけど、説得力があった。

──なんか、すごいな、この人。

この人の言葉は、時々“武器”みたいだ。

そう思ったとき、不意に島田が言った。

「お前、最近ちょっと顔つき変わってきたな」

「……そうですか?」

「悪い意味じゃない。目に“意志”が出てきた。 勉強ってのは、やった分だけ顔に出るんだよ。──いい顔になってきたよ」

──あ、なんか、この感じ、昔にもあったかも。

そう思ったのは、小学校の国語の授業で、読書感想文が貼り出されたとき。

「広瀬さん、上手に書けたね」

そう言われて嬉しかった、あの記憶。

──勉強って、好きになってもいいんだ。

ハルカはその日、塾の帰り道で思った。

そして、信号待ちの交差点でふと気づく。

──あたし、今、ちょっと前を向いてる。

帰宅して、母に言われた。

「今日、ちょっと顔が明るいね」

「……そうかな」

「うん。なんか、前より“ハルカっぽい”よ」

“ハルカっぽい”──その言葉の意味は、よくわからなかった。

でも、嫌じゃなかった。

ハルカはその夜、太宰ではなく、英語の長文を開いた。

そして、寝る前にスマホのカレンダーを確認して、明日の授業をチェックした。

──明日も、行こう。カンゾーに。

そこが、居場所なのかもしれない。

そう、思えた。

第4話へつづく