第3話からのつづき
──それは、最初は“質問のためのノック”だった。
「失礼します。現代文の記述で……」
そんな風にドアをノックして、塾長室を訪ねるのが、次第にハルカの習慣になっていった。
島田タクミは、毎日のように塾長室にいた。
ときには新聞を広げて、 ときには誰かと電話でやり合って、ときには「視察」という名目で外に出ていったが──
「生徒が来るなら、オレはいるよ。経営者ってのは、現場に顔出してなんぼだからな」
そう豪語して、いつも机の奥の大きな椅子にふんぞり返っていた。
机の上は書類で散らかっていたが、その真ん中にはやたら高級そうなクリスタルの灰皿。
そこに紙巻きタバコの吸い殻が山のように突き刺さっていた。
部屋の壁はヤニで真っ黄色である。
「タバコ、そんなにおいしいんですか?」
そう言ったハルカに、島田は言った。
「オレはガキの頃から親父のタバコの匂いで育ったからさ、なんか落ち着くんだよな」
そう言って、クルリと100円ライターを回す仕草が、妙に堂に入っていた。
──この人、なんなんだろう。
怖くはない。でも、どこか掴みきれない。
言葉はやたらに強くて、話も上手いけど、その裏側は見せない。
そんなある日。
「塾長って、どこの大学なんですか?」
そう何気なく聞いたとき、島田は一拍おいてから言った。
「東大。文学部。──意外か?」
「いえ……なんか、カタそうだなって」
「それ、誉めてないよな?」
「ふふ……」
ハルカは、自然に笑った。
「ま、オレは東大出たってだけでモテたからな。現代文も漢文も任せとけ。面接指導も特訓もするし、おでんの味も教えてやる」
「え、おでん?」
「いや、こっちの話。ふふっ」
──そのときは、何のことだかよくわからなかった。
あるとき、ちょっとしたきっかけで、ハルカが悩みを口にした。
「……学校で、ちょっと。浮いてるっていうか……」
「ふん、バカなガキどもに合わせる必要なんかないんだよ。お前はお前。──合格したら世界が変わるで。マジで」
島田の“断言口調”は、いつも現実を一歩超えていた。
でも不思議と、励まされる。
──この人が言うなら、なんとかなるかも。
そう思ってしまうような妙な説得力があった。
「先生って、塾長なのに、よく生徒の話聞いてくれますね」
「当たり前だろ。オレは“教育者”だ。教育ってのは“個別対応”だよ、特に今の時代は。 大手の予備校みたいに、100人の前で一方的に喋って終わり──それじゃダメなんだよ」
その日の帰り道。
ハルカは塾長室をノックした。
質問があったわけでも、相談があったわけでもない。 ただ、あの空気が、どこか落ち着くような気がしていた。
「どうした、今日は何の相談だ?」
「……特にないです。なんか、来ちゃいました」
「ふはっ、いいねぇ。そういうの、好きよ」
──島田タクミ。 このときのハルカには、まだ“塾長”だった。
経歴詐称も、個人情報の売買も──まだ何も知らなかった。
ただ、話を聞いてくれる大人というだけで、 あの部屋のドアを、彼女はノックし続けた。
その扉の向こうに、なにか答えがあるような気がして。
第5話へつづく