第4話からのつづき
「広瀬さんさぁ、最近ちょっと調子いいんじゃない?」
模試の結果を見せたとき、英語のチューターがそう言った。
たしかに、点数は上がっていた。偏差値も少しずつだけど右肩上がりだった。
「ええ、まあ……」
「なんかあった?やる気に火がついた感じする」
「……そんなことないです」
ハルカは、わざとそっけなく答えた。
ほんとは、ちょっとだけうれしかった。
カンゾーに通いはじめて、勉強が嫌じゃなくなってきた。
毎日、自習室に通って、問題集を進めて、わからないところはチューターに聞く。
ただ、それだけ。
でも、「何もなかった日」が「何かあった日」に変わっていく。
日記に書くような出来事はないけれど、たしかに、自分の中で何かが動いていた。
──そして、もうひとつ。
塾長室の扉も、週に何度か、開けるようになっていた。
「先生って、結婚してるんですか?」
ある日、ふと気になって聞いてみた。
島田は、一瞬だけ煙を吐いてから答えた。
「……昔してたよ。今は独り。まあ、しょうがないよな。オレみたいなのと、長く一緒にいるのは」
「そうなんですか」
「でもさ、失ってから気づくもんもあるんだよな。不思議と。 なんでもっと優しくできなかったんだろうとかさ」
「……」
「人間ってのは、バカだよな。やってるときは夢中でさ、気づかないんだよ。 そのとき、誰がそばにいてくれたかなんて」
ハルカは黙って、島田の言葉を聞いていた。
この人は、本気で話しているのか。 それとも、これは、誰にでも言ってる「塾長トーク」なのか。
でもそのとき、島田が見せた横顔は、少しだけ、哀しかった。
──この人にも、過去があるんだ。
そう思った。
そんなある日。
カンゾーの受付で、ある女子が噂話をしていた。
「ねえ、聞いた? あの塾長さ、ちょっと昔、やばかったらしいよ」
「え、なに?」
「なんかさ、前にいた塾で、いろいろあったって。SNSでちょっと見たんだけど……」
ハルカの耳が、自然とその会話を拾っていた。
その夜、ハルカは自分のスマホで検索をかけてみた。
──「島田巧 塾長 過去」
出てきたのは、古い記事の断片と、匿名掲示板の書き込み。
〈あいつ、昔大阪でヤバことして東京に来たって聞いたぞ〉
〈生徒と仲良くなりすぎてたらしい〉
〈教え子に手出してたって噂も……〉
「……」
ハルカはスマホをそっと閉じた。
本当かもしれない。嘘かもしれない。
でも、たしかに何かが“引っかかった”。
──じゃあ、私は?
今、自分があの塾長と距離を縮めているのは、ただの“特別対応”じゃなくて──
「……私も、そう思われてるのかな」
カンゾーの帰り道。 湿った風が、ジーンズの裾にまとわりつく。
団地の非常階段を上っていると、向かいの棟の窓からテレビの笑い声が聞こえた。
なんでもない音が、少しだけ、遠く感じた。
──もしかして、私はもう、戻れない場所にいるのかもしれない。
自分でも、まだ気づいていなかった。 この時点で、もうハルカの心には、うっすらと影が差していたことに。
第6話へつづく