第5話:浮かぶ影

第4話からのつづき

「広瀬さんさぁ、最近ちょっと調子いいんじゃない?」

模試の結果を見せたとき、英語のチューターがそう言った。

たしかに、点数は上がっていた。偏差値も少しずつだけど右肩上がりだった。

「ええ、まあ……」

「なんかあった?やる気に火がついた感じする」

「……そんなことないです」

ハルカは、わざとそっけなく答えた。

ほんとは、ちょっとだけうれしかった。

カンゾーに通いはじめて、勉強が嫌じゃなくなってきた。
毎日、自習室に通って、問題集を進めて、わからないところはチューターに聞く。
ただ、それだけ。

でも、「何もなかった日」が「何かあった日」に変わっていく。
日記に書くような出来事はないけれど、たしかに、自分の中で何かが動いていた。

──そして、もうひとつ。

塾長室の扉も、週に何度か、開けるようになっていた。

「先生って、結婚してるんですか?」

ある日、ふと気になって聞いてみた。

島田は、一瞬だけ煙を吐いてから答えた。

「……昔してたよ。今は独り。まあ、しょうがないよな。オレみたいなのと、長く一緒にいるのは」

「そうなんですか」

「でもさ、失ってから気づくもんもあるんだよな。不思議と。 なんでもっと優しくできなかったんだろうとかさ」

「……」

「人間ってのは、バカだよな。やってるときは夢中でさ、気づかないんだよ。 そのとき、誰がそばにいてくれたかなんて」

ハルカは黙って、島田の言葉を聞いていた。

この人は、本気で話しているのか。 それとも、これは、誰にでも言ってる「塾長トーク」なのか。

でもそのとき、島田が見せた横顔は、少しだけ、哀しかった。

──この人にも、過去があるんだ。

そう思った。

そんなある日。

カンゾーの受付で、ある女子が噂話をしていた。

「ねえ、聞いた? あの塾長さ、ちょっと昔、やばかったらしいよ」

「え、なに?」

「なんかさ、前にいた塾で、いろいろあったって。SNSでちょっと見たんだけど……」

ハルカの耳が、自然とその会話を拾っていた。

その夜、ハルカは自分のスマホで検索をかけてみた。

──「島田巧 塾長 過去」

出てきたのは、古い記事の断片と、匿名掲示板の書き込み。

〈あいつ、昔大阪でヤバことして東京に来たって聞いたぞ〉

〈生徒と仲良くなりすぎてたらしい〉

〈教え子に手出してたって噂も……〉

「……」

ハルカはスマホをそっと閉じた。

本当かもしれない。嘘かもしれない。

でも、たしかに何かが“引っかかった”。

──じゃあ、私は?

今、自分があの塾長と距離を縮めているのは、ただの“特別対応”じゃなくて──

「……私も、そう思われてるのかな」

カンゾーの帰り道。 湿った風が、ジーンズの裾にまとわりつく。

団地の非常階段を上っていると、向かいの棟の窓からテレビの笑い声が聞こえた。

なんでもない音が、少しだけ、遠く感じた。

──もしかして、私はもう、戻れない場所にいるのかもしれない。

自分でも、まだ気づいていなかった。 この時点で、もうハルカの心には、うっすらと影が差していたことに。

第6話へつづく