第5話からのつづき
──夏が始まる頃。
カンゾーの自習室は、朝から夜まで満席だった。
ハルカも例外ではなく、ほぼ毎日通い詰めていた。
「最近よく見るね、あの子」
「塾長のお気に入りらしいよ」
そんな噂が、少しずつ広がっていた。
でも、それを耳にしても、ハルカは特に反応しなかった。
──あの人は、特別な誰かに、そうしているわけじゃない。
そう信じていた。
そう、思いたかった。
講習の合間、島田タクミが廊下で声をかけてきた。
「お、今日も頑張ってるな。ちゃんと飯、食べてんのか?」
「……はい、コンビニで」
「バカ。コンビニばっかじゃ身体もたねえよ。──これ、食え」
差し出されたのは、透明なパックに入った手作り弁当。
「まさか……」
「作ったのはうちの事務スタッフ。家庭的な奥さんでさ。余ったの持ってきた」
「……あ、ありがとうございます」
受け取った弁当の中には、たまご焼きと、きんぴらごぼう、そして焼き魚。
──どれも、家では食べたことのない味だった。
その夜、帰宅後。
ハルカは母に、何気なく弁当の話をした。
けれど、母の反応は冷たかった。
「へえ、塾の先生が手作り弁当? 女の子に? ……変な話ね」
「いや、先生が作ったんじゃなくて、奥さんが──」
「それでも、男が弁当渡すなんて、おかしいわよ」
そう言って母は、冷蔵庫の中のビールを取り出して、プシュッと缶を開けた。
──私は、ただ、頑張ってるってことを伝えたかっただけなのに。
言葉にならなかった言葉が、喉の奥でつかえた。
夏が終わり、秋。
模試で、ハルカは“全科目偏差値60を突破した。
入塾当初からは、15以上のアップ。
担任やチューターたちは驚いていた。
「やばくね? なんか、見た目は静かだけど、内側は燃えてるって感じ」
「最近、塾長の隠し球とか呼ばれてるよ」
そう言われるたびに、ハルカの表情は曖昧に揺れた。
──違う。ただ、私は勉強するしかなかっただけ。
塾長室に行く頻度も、以前より増えた。
ある日、ふと島田が言った。
「……お前さ、自分が特別な存在だって、気づいてるか?」
「……なんでですか?」
「この時期、勉強に本気で向き合ってる受験生なんて、クラスに3人いればいい方だ。でも、お前はやってる。しかも、結果も出してる。──それって、誇っていいことなんだよ」
ハルカは、うつむいた。
──特別、なんて言葉。
ずっと縁がないと思ってた。
でも、それを言ってくれた人がいた。
初めて。
「……ありがとうございます」
小さな声で、それだけを返した。
しかし──
その帰り道、ハルカは、ふと目を疑った。
駅前の自販機のそば。
制服を着た、別の女子生徒が、島田と並んでいた。
笑っていた。
親しげに。
ハルカが「特別」だと信じた時間が、急に崩れ始めた。
──あの人は、誰にでも、あんなふうに話すのかもしれない。
駅のホームに戻ったハルカは、ミルクティーの缶を握りしめながら、自分の心がどこか遠くに行ってしまいそうな感覚を抱えていた。
──私は、やっぱり、特別なんかじゃなかった。
第7話へつづく