第6話:特別じゃない私

第5話からのつづき

──夏が始まる頃。

カンゾーの自習室は、朝から夜まで満席だった。

ハルカも例外ではなく、ほぼ毎日通い詰めていた。

「最近よく見るね、あの子」

「塾長のお気に入りらしいよ」

そんな噂が、少しずつ広がっていた。

でも、それを耳にしても、ハルカは特に反応しなかった。

──あの人は、特別な誰かに、そうしているわけじゃない。

そう信じていた。
そう、思いたかった。

講習の合間、島田タクミが廊下で声をかけてきた。

「お、今日も頑張ってるな。ちゃんと飯、食べてんのか?」

「……はい、コンビニで」

「バカ。コンビニばっかじゃ身体もたねえよ。──これ、食え」

差し出されたのは、透明なパックに入った手作り弁当。

「まさか……」

「作ったのはうちの事務スタッフ。家庭的な奥さんでさ。余ったの持ってきた」

「……あ、ありがとうございます」

受け取った弁当の中には、たまご焼きと、きんぴらごぼう、そして焼き魚。

──どれも、家では食べたことのない味だった。

その夜、帰宅後。

ハルカは母に、何気なく弁当の話をした。

けれど、母の反応は冷たかった。

「へえ、塾の先生が手作り弁当? 女の子に? ……変な話ね」

「いや、先生が作ったんじゃなくて、奥さんが──」

「それでも、男が弁当渡すなんて、おかしいわよ」

そう言って母は、冷蔵庫の中のビールを取り出して、プシュッと缶を開けた。

──私は、ただ、頑張ってるってことを伝えたかっただけなのに。

言葉にならなかった言葉が、喉の奥でつかえた。

夏が終わり、秋。

模試で、ハルカは“全科目偏差値60を突破した。

入塾当初からは、15以上のアップ。

担任やチューターたちは驚いていた。

「やばくね? なんか、見た目は静かだけど、内側は燃えてるって感じ」

「最近、塾長の隠し球とか呼ばれてるよ」

そう言われるたびに、ハルカの表情は曖昧に揺れた。

──違う。ただ、私は勉強するしかなかっただけ。

塾長室に行く頻度も、以前より増えた。

ある日、ふと島田が言った。

「……お前さ、自分が特別な存在だって、気づいてるか?」

「……なんでですか?」

「この時期、勉強に本気で向き合ってる受験生なんて、クラスに3人いればいい方だ。でも、お前はやってる。しかも、結果も出してる。──それって、誇っていいことなんだよ」

ハルカは、うつむいた。

──特別、なんて言葉。

ずっと縁がないと思ってた。
でも、それを言ってくれた人がいた。
初めて。

「……ありがとうございます」

小さな声で、それだけを返した。

しかし──
その帰り道、ハルカは、ふと目を疑った。

駅前の自販機のそば。
制服を着た、別の女子生徒が、島田と並んでいた。

笑っていた。
親しげに。

ハルカが「特別」だと信じた時間が、急に崩れ始めた。

──あの人は、誰にでも、あんなふうに話すのかもしれない。

駅のホームに戻ったハルカは、ミルクティーの缶を握りしめながら、自分の心がどこか遠くに行ってしまいそうな感覚を抱えていた。

──私は、やっぱり、特別なんかじゃなかった。

第7話へつづく