第7話:どこまで本気?

第6話からのつづき

──塾長室のドアを、開けるか、開けないか。

その判断に、時間がかかるようになったのは、いつからだったろう。

「……あの子、また島田先生と話してるよ」

「もしかして、お気に入りってやつ?」

そんな声が、カンゾーの中で少しずつ増えていた。

ハルカは、自分でも気づかないうちに、教室では孤立していた。

でも、気づかないふりをしていた。

島田タクミは、相変わらずだった。
変わらぬ態度で、変わらぬ口調で、「いいか? 勉強ってのはな……」と語る。

だけど、ハルカの内側では、なにかが変わりはじめていた。

──この人は、どこまで「本当のこと」を言っているんだろう?

秋のある日。

自習室で英語のチューターに話しかけられた。

「最近、どう? 順調そうに見えるけど」

「……うん。まあ」

「ハルカさんってさ、島田先生に可愛がられてるよね。いや、悪い意味じゃなくて。
でもちょっと、距離近すぎじゃないかなって、心配してる人もいるよ」

──その「心配」が、本当に自分のためなのかは、わからない。

でも、確かに、何かが周囲とズレていることは、わかっていた。

その週末。

島田から、初めて“外で会おうか”と言われた。

「お前、コンビニ弁当ばっかだろ? たまには、ちゃんとしたもん食わせてやるよ」

ファミレスは、大久保駅から徒歩5分。

カンゾーのある高田馬場にも近く、島田タクミが「よく使う店」だった。

店員とも顔なじみで、オーダーを取る前からアイスコーヒーが運ばれてくる。

「ここはオレのホームグラウンドだからな」

その言葉通り、タクミは席に深くふんぞり返り、まるで自宅のようにくつろいでいた。

ハルカは窓際の対面に座り、緊張しながらミルクティーに口をつける。

──ふたりきりの外出は、これが初めてだった。

「塾じゃ話しにくいこともあるだろ? 外の空気、吸いたくなるときってあるよな」

タクミはそう言いながら、ステーキセットを注文した。

大きなライスを見て、「あーあ、炭水化物祭りだ!ダイエットは明日からやな」と笑った。

ハルカは、タクミのその無邪気さに、不思議な安堵を覚えた。

「ハルカ、お前、意外と真面目なんだな。塾じゃちょっとツンとしてんのに」

「……そうですか?」

「まあ、オレの前では素直だしな。そこがいいとこだよ」

どこか、くすぐったいような、照れくさいような空気が流れる。

──そして、食後。

タクミは胸ポケットから名刺を取り出し、ハルカに差し出した。

関東学力増進機構 代表取締役・塾長 島田巧

金の箔押しが施された、やけに豪華な名刺だった。

「……これ、あげるよ」

「え?」

「何かあったら、これ見せて堂々としてろ。カンゾーの塾長と知り合いですってな」

冗談めかして笑ったタクミの目は、なぜか真剣だった。

ハルカは、その名刺を両手で受け取った。

──不思議だった。
名刺という、ただの紙切れが、こんなに重く感じるなんて。

「あの……こんなの、もらっていいんですか?」

「バカ。塾長がくれたもんだろ。ありがたく財布に入れとけ」

──財布。
ハルカは、母から譲り受けた古びた長財布の中に、そっとその名刺をしまった。

「オレさ……昔、学校でいじめられてる子に、名刺やったことあるんだよ。“困ったら見せろ”ってな」

「……それ、効いたんですか?」

「効いたよ。だって、オレ、東大卒だからな」

そう言って、ニヤリと笑う。

「ウソでも本当でも、“後ろ盾”ってのは大事なんだよ。誰かが信じてくれるかもしれない。──オレは、そういう存在になりたいんだ」

その言葉に、ハルカは小さく息をのんだ。

──この人、本気でそう思ってるのかもしれない。

もちろん、どこか演技も混じってるのかもしれない。
でも、ハルカには、それを見抜く術がなかった。

ファミレスを出た帰り道。
大久保の路地を歩きながら、タクミはふと足を止めた。

「お前は……どこまで行けると思う?」

「え?」

「努力すりゃ、東大だって狙えんだよ。──でもな、人間って、どっかで“あきらめる力”も必要なんだ」

「……どういう意味ですか?」

「世の中、全員が医者になれるわけじゃない。でも、誰だって“なれるかもしれない”って思ってる。オレは、そいつらを現実に引き戻すのが仕事だ」

「……それでも、夢は見せてくれるんですね」

「夢は見せるもんだ。見せて終わるのが、塾ってもんさ」

──夢は見せる。
でも、叶えるとは言わない。

ハルカは、その言葉が、妙にリアルに響いた。

団地に帰ったあと、名刺を机に出して眺めてみた。

──金の箔押し。代表取締役・塾長。

カンゾーという塾の、ひとつの「顔」だった。

それはまだ、ただの紙切れだった。

でも、いつか──彼女の運命を大きく揺らす“鍵”になる。

──そうとは知らずに、ハルカはそれを、財布の奥にしまい込んだ。

第8話へつづく