第6話からのつづき
──塾長室のドアを、開けるか、開けないか。
その判断に、時間がかかるようになったのは、いつからだったろう。
「……あの子、また島田先生と話してるよ」
「もしかして、お気に入りってやつ?」
そんな声が、カンゾーの中で少しずつ増えていた。
ハルカは、自分でも気づかないうちに、教室では孤立していた。
でも、気づかないふりをしていた。
島田タクミは、相変わらずだった。
変わらぬ態度で、変わらぬ口調で、「いいか? 勉強ってのはな……」と語る。
だけど、ハルカの内側では、なにかが変わりはじめていた。
──この人は、どこまで「本当のこと」を言っているんだろう?
秋のある日。
自習室で英語のチューターに話しかけられた。
「最近、どう? 順調そうに見えるけど」
「……うん。まあ」
「ハルカさんってさ、島田先生に可愛がられてるよね。いや、悪い意味じゃなくて。
でもちょっと、距離近すぎじゃないかなって、心配してる人もいるよ」
──その「心配」が、本当に自分のためなのかは、わからない。
でも、確かに、何かが周囲とズレていることは、わかっていた。
その週末。
島田から、初めて“外で会おうか”と言われた。
「お前、コンビニ弁当ばっかだろ? たまには、ちゃんとしたもん食わせてやるよ」
ファミレスは、大久保駅から徒歩5分。
カンゾーのある高田馬場にも近く、島田タクミが「よく使う店」だった。
店員とも顔なじみで、オーダーを取る前からアイスコーヒーが運ばれてくる。
「ここはオレのホームグラウンドだからな」
その言葉通り、タクミは席に深くふんぞり返り、まるで自宅のようにくつろいでいた。
ハルカは窓際の対面に座り、緊張しながらミルクティーに口をつける。
──ふたりきりの外出は、これが初めてだった。
「塾じゃ話しにくいこともあるだろ? 外の空気、吸いたくなるときってあるよな」
タクミはそう言いながら、ステーキセットを注文した。
大きなライスを見て、「あーあ、炭水化物祭りだ!ダイエットは明日からやな」と笑った。
ハルカは、タクミのその無邪気さに、不思議な安堵を覚えた。
「ハルカ、お前、意外と真面目なんだな。塾じゃちょっとツンとしてんのに」
「……そうですか?」
「まあ、オレの前では素直だしな。そこがいいとこだよ」
どこか、くすぐったいような、照れくさいような空気が流れる。
──そして、食後。
タクミは胸ポケットから名刺を取り出し、ハルカに差し出した。
関東学力増進機構 代表取締役・塾長 島田巧
金の箔押しが施された、やけに豪華な名刺だった。
「……これ、あげるよ」
「え?」
「何かあったら、これ見せて堂々としてろ。カンゾーの塾長と知り合いですってな」
冗談めかして笑ったタクミの目は、なぜか真剣だった。
ハルカは、その名刺を両手で受け取った。
──不思議だった。
名刺という、ただの紙切れが、こんなに重く感じるなんて。
「あの……こんなの、もらっていいんですか?」
「バカ。塾長がくれたもんだろ。ありがたく財布に入れとけ」
──財布。
ハルカは、母から譲り受けた古びた長財布の中に、そっとその名刺をしまった。
「オレさ……昔、学校でいじめられてる子に、名刺やったことあるんだよ。“困ったら見せろ”ってな」
「……それ、効いたんですか?」
「効いたよ。だって、オレ、東大卒だからな」
そう言って、ニヤリと笑う。
「ウソでも本当でも、“後ろ盾”ってのは大事なんだよ。誰かが信じてくれるかもしれない。──オレは、そういう存在になりたいんだ」
その言葉に、ハルカは小さく息をのんだ。
──この人、本気でそう思ってるのかもしれない。
もちろん、どこか演技も混じってるのかもしれない。
でも、ハルカには、それを見抜く術がなかった。
ファミレスを出た帰り道。
大久保の路地を歩きながら、タクミはふと足を止めた。
「お前は……どこまで行けると思う?」
「え?」
「努力すりゃ、東大だって狙えんだよ。──でもな、人間って、どっかで“あきらめる力”も必要なんだ」
「……どういう意味ですか?」
「世の中、全員が医者になれるわけじゃない。でも、誰だって“なれるかもしれない”って思ってる。オレは、そいつらを現実に引き戻すのが仕事だ」
「……それでも、夢は見せてくれるんですね」
「夢は見せるもんだ。見せて終わるのが、塾ってもんさ」
──夢は見せる。
でも、叶えるとは言わない。
ハルカは、その言葉が、妙にリアルに響いた。
団地に帰ったあと、名刺を机に出して眺めてみた。
──金の箔押し。代表取締役・塾長。
カンゾーという塾の、ひとつの「顔」だった。
それはまだ、ただの紙切れだった。
でも、いつか──彼女の運命を大きく揺らす“鍵”になる。
──そうとは知らずに、ハルカはそれを、財布の奥にしまい込んだ。
第8話へつづく