第7話からのつづき
──午後10時。
カンゾウの自習室は、いつもより静かだった。
試験が終わったばかりということもあり、生徒の数はまばら。
時計の針の音が、やけに大きく聞こえた。
「……広瀬さん、そろそろ閉館ですよ」
受付のスタッフが、申し訳なさそうに声をかけてくる。
「あ、はい。すぐ出ます」
そう言ってペンをしまいながら、ふとハルカは思った。
──まだ、聞きたいことがある。
でも、それは勉強のことじゃない。
もっと、どうでもいいこと。
誰かと少しだけ話していたい。そんな夜だった。
生徒やチューターが退出し、受付の灯りが落とされていく中で、塾内には一つだけ灯りが残っていた。
──塾長室。
ノックしようか迷って、でも迷って、そして──
「……すみません、まだいらっしゃいますか?」
「おう、ハルカか。入んなよ」
島田タクミは、灰皿に山盛りの吸い殻を残したまま、例のクリスタルの灰皿を指差した。
「ちょっと息抜きだ。──疲れただろ? お前も」
「……はい。なんか今日は、変に頭が冴えてて」
「あるな、そういう夜。俺はね、ゾーンって呼んでるんだよ。受験生ってのは、集中の波をどう乗りこなすかなんだ」
ゾーン──
その言葉を初めて聞いたハルカは、なんとなくカッコいいな、と思った。
島田はカップ麺にお湯を注ぎながら、こんなことを言い出した。
「俺、前に、別の予備校にいたんだよ。“方針が合わなくて”辞めたけどな」
「……合わないって?」
「いちいちうるせーのよ。チラシがどうだの、講師の授業がどうだの。“もっと東大出身増やせ”とか、“大学生のチューターの顔採用”とか言いやがって」
ハルカは小さく笑った。
「……顔採用、ありそう」
「あるんだよ、現実に。けど、俺は中身重視だからな。お前みたいに、“空気読まずに質問できる”やつが、一番伸びるんだよ」
空気読まず──
それを褒め言葉として受け取ったのは、たぶん人生で初めてだった。
「……それで、カンゾウに?」
「ああ。自分で作ったんだ。“自分のやりたい教育”をやる場所。最初は小さいとこからだったけどな」
島田は、ふと笑った。
「お前も、将来の夢とか、あんの?」
「……どうだろう。まだ、はっきりはしてないけど、大学はちゃんと行きたいって思ってます」
「ちゃんと、ね。──ええ子や」
その“ええ子や”という関西イントネーションの言葉に、ハルカは思わず笑ってしまった。
「……関西の人なんですか?」
「あ、俺? 四国だよ、四国。──ちくわぶなんか食わない文化圏だよ」
「……ちくわぶ?」
「東京に出てきて初めて見たよ、あんなの。味もしねえし、あれをありがたがる感性がわかんねえ」
「私は、けっこう好きですけど……」
「そりゃ、東京生まれの味覚だな。俺は断然、牛スジかタコ。それか餅巾着。──ちくわぶなんか、おでん界のハズレくじだろ」
ハルカは、箸で掴んだちくわぶを思い出した。
ふにゃふにゃしてて、でも出汁が染みてて、どこか地味だけど、落ち着く味。
──あれが、好きだった。
「……先生って、ハズレくじが嫌いそうですよね」
「ん?」
「私、たぶん……人生のハズレくじ、よく引くタイプなんで」
ふと、静かな沈黙が降りた。
島田は、それには何も言わなかった。
ただ、そっとカップ麺の蓋を開け、「まだ硬ぇな」とぼやいた。
──それは、優しさだったのかもしれない。
そして、帰り際。
タクミはふと、懐から千円札を取り出して言った。
「……これで、おでんでも買って帰れ」
「え?」
「いいんだよ。最近、調子いいし。“ええ子”には、ちゃんとご褒美やんなきゃな」
ハルカは、一瞬戸惑ってから、千円札を受け取った。
「……ありがとう、ございます」
──それは、どこか父親のようで。
でも、それ以上に、境界が曖昧な“何か”だった。
名刺と、千円札。
ふたつの“紙切れ”が、財布の中で重なっていた。
第9話へつづく