第9話(終):いつものおでん

第8話からの続き

ゴールデン街の裏通り。
夜風が少しだけやわらいだ頃、ゴンドウ龍太郎は“あの店”のドアを静かに開けた。

──スナック「うらがわ」。

かつてテレビにちょっとだけ出ていたという噂のあるママが、一人でやっている店。

壁には色あせたサイン色紙。メニューは手書きの黒板。

カウンター奥には、今夜もいつもゴンドウが座る席が空いていた。

「いらっしゃい、ゴンドウちゃん。顔が“まあまあです”って顔してるわね」

「……まあね」

ママが濃いめのハイボールを出してくれる。

その炭酸の刺激が、胃の奥にじわっと広がっていく。

「いつものおでんね」

白い器が出される。

大根、がんも、ちくわ、こんにゃく、卵──そして、ちくわぶ。

「変わらないね、ここのは」

そう言いながら、ゴンドウはちくわぶに箸を伸ばした。

──彼は昔から、ちくわぶが好きだった。

派手じゃない。うまいかと言われると説明に困る。
だが、汁を吸ったそのやわらかさと素朴さが、どうしようもなく沁みる。

「今日さ、一件逃したよ。まとまりそうだったんだけどね」

「そう。まあ……誰のせいでもないわよ」

「うん。時代ってのもあるかもしれないけど……最近の教育業界、ちょっと動きが変わってきてる」

ママはグラスを拭きながら、ちらりとゴンドウを見る。

「変わってきたって?」

「うん。医学部志望者が増えてきている。でも、レッドオーシャンなのは変わらない。少ないパイを巡って、いろんな情報が裏で飛び交ってる。──まあ、俺もその中にいないわけじゃないけど」

ママは静かにうなずいた。

「そういうのって、値段も変わってくるんじゃない?」

「……まあ、昔と比べたら、おそろしいほど上がってるよ。でも俺は、そこまで深く踏み込む気にはなれないんだ。目立つのは怖いし、あんまりうまくもない。性格、出るからね」

ママは少し笑って言った。

「でもさ、目立って派手にやってた人が、最後は一番目立ってコケてたじゃない」

──そう、島田タクミ。

牛スジやタコ、餅巾着みたいな「主役級の具」をありがたがって、ちくわぶのことは「関東人しか食わねぇもんだろ」と笑っていたあの男。

──それが今では、「おでん男」としてネットでネタにされる日々。

「……あいつは、ちくわぶをバカにしてたよな」

ゴンドウはちくわぶを口に運びながら、少し笑った。

「俺は、昔からちくわぶ派だよ。地味で、目立たなくて……なんか、俺みたいでさ」

「ふふっ、あんたらしいわ。あんたって昔から、地味だけど温かいとこあるもんね」

「そうかい?」

「そうよ。……ちくわぶ、似合ってる」

店内のBGMは、演歌だった。

ハイボールの氷がカランと音を立て、冬のおでんが、湯気を立てていた。

「結局さ……俺、ちくわぶがお似合いな人生なんだよ」

「でも、ちくわぶしか分からない温度って、あるわよ」

そう言って、ママは鍋に手を伸ばし、新しいちくわぶを器に入れた。

「おかわり、する?」

「……もらおうかな」

──それは、敗者の姿ではなかった。

ただ、そうするしかなかった男の、ひとつの生き方だった。

俺は俺のおでんを売るだけさ。

そう心の中で呟きながら、ゴンドウ龍太郎は、夜のしじまの中で、苦笑いを浮かべ、ちくわぶを噛みしめていた。

– 完 –

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