第8話からの続き
ゴールデン街の裏通り。
夜風が少しだけやわらいだ頃、ゴンドウ龍太郎は“あの店”のドアを静かに開けた。
──スナック「うらがわ」。
かつてテレビにちょっとだけ出ていたという噂のあるママが、一人でやっている店。
壁には色あせたサイン色紙。メニューは手書きの黒板。
カウンター奥には、今夜もいつもゴンドウが座る席が空いていた。
「いらっしゃい、ゴンドウちゃん。顔が“まあまあです”って顔してるわね」
「……まあね」
ママが濃いめのハイボールを出してくれる。
その炭酸の刺激が、胃の奥にじわっと広がっていく。
「いつものおでんね」
白い器が出される。
大根、がんも、ちくわ、こんにゃく、卵──そして、ちくわぶ。
「変わらないね、ここのは」
そう言いながら、ゴンドウはちくわぶに箸を伸ばした。
──彼は昔から、ちくわぶが好きだった。
派手じゃない。うまいかと言われると説明に困る。
だが、汁を吸ったそのやわらかさと素朴さが、どうしようもなく沁みる。
「今日さ、一件逃したよ。まとまりそうだったんだけどね」
「そう。まあ……誰のせいでもないわよ」
「うん。時代ってのもあるかもしれないけど……最近の教育業界、ちょっと動きが変わってきてる」
ママはグラスを拭きながら、ちらりとゴンドウを見る。
「変わってきたって?」
「うん。医学部志望者が増えてきている。でも、レッドオーシャンなのは変わらない。少ないパイを巡って、いろんな情報が裏で飛び交ってる。──まあ、俺もその中にいないわけじゃないけど」
ママは静かにうなずいた。
「そういうのって、値段も変わってくるんじゃない?」
「……まあ、昔と比べたら、おそろしいほど上がってるよ。でも俺は、そこまで深く踏み込む気にはなれないんだ。目立つのは怖いし、あんまりうまくもない。性格、出るからね」
ママは少し笑って言った。
「でもさ、目立って派手にやってた人が、最後は一番目立ってコケてたじゃない」
──そう、島田タクミ。
牛スジやタコ、餅巾着みたいな「主役級の具」をありがたがって、ちくわぶのことは「関東人しか食わねぇもんだろ」と笑っていたあの男。
──それが今では、「おでん男」としてネットでネタにされる日々。
「……あいつは、ちくわぶをバカにしてたよな」
ゴンドウはちくわぶを口に運びながら、少し笑った。
「俺は、昔からちくわぶ派だよ。地味で、目立たなくて……なんか、俺みたいでさ」
「ふふっ、あんたらしいわ。あんたって昔から、地味だけど温かいとこあるもんね」
「そうかい?」
「そうよ。……ちくわぶ、似合ってる」
店内のBGMは、演歌だった。
ハイボールの氷がカランと音を立て、冬のおでんが、湯気を立てていた。
「結局さ……俺、ちくわぶがお似合いな人生なんだよ」
「でも、ちくわぶしか分からない温度って、あるわよ」
そう言って、ママは鍋に手を伸ばし、新しいちくわぶを器に入れた。
「おかわり、する?」
「……もらおうかな」
──それは、敗者の姿ではなかった。
ただ、そうするしかなかった男の、ひとつの生き方だった。
俺は俺のおでんを売るだけさ。
そう心の中で呟きながら、ゴンドウ龍太郎は、夜のしじまの中で、苦笑いを浮かべ、ちくわぶを噛みしめていた。
– 完 –
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