第8話:東池袋ブリーフケース

第7話からのつづき

雨がしとしと降っていた。

春の終わりと初夏の境目、街はまだコートと傘の両方を欲していた。

ゴンドウは、東池袋の交差点を渡る。

背中には例の、角ばった大きなリュック。
中には名簿の束と、東芝製のノートパソコン。
リュックの口は少し開き、書類が風に揺れている。
その姿は、どこか“移動する古本屋”のようにも見えた。

向かう先は、サンシャイン通りの路地裏にある古いビル──

その4階にあるのが、「伊東予備校」池袋校。
かつて伊東の温泉街で創業し、全国展開したこの予備校も、いまや経営は縮小気味。教室の照明もどこか暗い。

受付では、年季の入ったパーテーション越しに女性が対応する。

「ゴンドウさん、今日はノリコさん、昼過ぎに戻るって」

「了解でーす。じゃあ、資料だけ置いてきますね〜」

そのまま職員室へ。

ゴンドウが机の隅に封筒を置くと、ふと誰かが後ろから声をかけた。

「……あの、それって、また名簿ですか?」

振り返ると、そこには若い事務スタッフの女性が立っていた。
年は20代後半。声は明るいが、目が少し警戒している。

「え?いやいや、これはただの集計表……」

「ふ〜ん。最近ネットで見たんですよね。“名簿屋のオジサン”って話」

ゴンドウは苦笑いした。

「やだな〜、俺、そんなヤバいやつじゃないよ〜。見た目のせいかな?」

「まぁ……言い方悪いけど、ちょっと怪しさあるかも」

「これ、“教材サンプル”だって。営業資料の一部だよ。ほんとに」

若い女性は、納得していないようだったが、それ以上追及はしなかった。

そしてゴンドウは、彼女に「ちょっと、そこの空いている机を借りるよ」と言う。

「どうぞ、ご自由に」

そっけない声が返ってきた。

ノリコが戻ってくるまでに、この机を借りて一仕事だ。

ゴンドウはリュックからノートパソコンを取り出した。

起動音はブーンと重たい。
ゴンドウの愛機、東芝製のノートパソコンだ。

──分厚くて、重くて、発熱もすごいが、なぜか手放せない。
「やっぱり、東芝は安定してるんだよ。親父も東芝だったしさ」
誰に言うでもなくつぶやいたその言葉に、周囲の誰から「ああ、そうなんですね」と興味なさそうな声が返ってきた。

誰もそのノートパソコンなどに興味を持たない。
それでも、ゴンドウは東芝の旧式のノートパソコンを愛していた。

昼過ぎ、ノリコが戻ってくる。

いつもの濃いめのファンデーションに、やや派手なパーマ。
元・保険レディとして全国1位を獲った女の、名残はまだ残っている。

「……あんた、また妙な目で見られてんじゃないの?」

「え、バレた?」

「アンタさ、もうちょっと身なり整えたら? 派手なネクタイより、リュックよ。あれなんとかしなさい」

「これ? 今どきの学生だってこういう四角いの背負ってんじゃん」

「学生は中身MacかiPadでしょ。あんた、昭和の東芝パソコンでしょ」

「……それは否定できない」

ふたりの会話は、まるで夫婦漫才だった。

その帰り道。

駅前のベンチでひと休みしていたゴンドウは、ふと財布を開いた。

中には、千円札が数枚と、割引クーポン券。
──そして、折れた名刺が1枚。

「島田巧 メディカルデラックス 名誉総長」

金の箔押しが、くすんで見える。

(……そういえば、最近連絡来ねぇな)

ここ数ヶ月、タクミから連絡はなかった。

かつては週に一度は「いいスナック知らないか?」と電話が来ていたのに。

そのままスマホを開き、なんとなくニュースアプリを起動。
その瞬間──目に飛び込んできたのは、見覚えのある名前だった。

【破廉恥ギャンブル教育者 名誉総長の闇】
──島田巧、経歴詐称と横領疑惑

ゴンドウは、その画面をじっと見つめた。

「……あー、とうとう出たか」

驚きはなかった。

むしろ、「やっとバレたか」という感想に近かった。

──でも、思ったより早かったな。

スマホを閉じ、またリュックのベルトを背負い直す。

「俺は俺のおでんを売るだけさ……っと」

雨は止んでいた。
空はまだくすんでいたが、風だけは少し軽くなっていた。

第9話へつづく