第7話:主役と脇役

第6話からのつづき

都内某所──川沿いの倉庫跡地に建てられた灰色の6階建てビル。

その最上階にある一室。 分厚いカーテン、応接セット、クリスタルの灰皿に山積みの吸い殻──

関東学力増進機構(カンゾウ)の「塾長室」だった。

そして、そこにふんぞり返っていたのが──
「カンゾウの帝王」こと、塾長・島田タクミである。

「カンゾウは今、生徒200人。中堅予備校としては上出来よ。だろ?」

誰に語るでもなく、天井を仰ぎながらタクミは笑う。

その顔には、黒光りするオールバックと、どこか狐めいた細い目。

着ているのは、襟の立ったラガーシャツ。声がでかく、笑い声はやたらと響く。
ゴンドウが初めて彼と会ったのは、その塾長室だった。

「あんた、教材会社の……えっと?」

「ゴンドウです。ゴンドウ龍太郎と申します」

「おう、で、おたくの教材、何が売りなの?」

ゴンドウは用意していた教材見本を机に広げた。
世界史、現代文、漢文、数IIBまで。定番セットである。

だが、タクミは見向きもしなかった。

「──それより、名簿持ってる?」

その一言で、空気が変わった。

「あー、まぁ……多少は……」

「どこの学校? 公立? 私立? 中高一貫か? 女子高か?」

「えっと、今あるのは都立A高と、あと埼玉の私立──」

「そのままコピーもらえる? 封筒に入れて。ギャラは、出すから」

タクミは机の引き出しから札束の入った封筒を取り出し、トスのように放ってきた。
それを受け取るゴンドウ。

──瞬間的に、立場が決まった気がした。

「集客、どうしてるんですか?」とゴンドウが聞くと、タクミは声を上げて笑った。

「ネット? SNS? 甘ぇ甘ぇ。うちは電話よ、電話」

「いまだに電話営業なんて……」

「“いまだに”じゃねぇ、“今こそ”だよ」

タクミの目がギラリと光る。

「お前、声ってすげぇんだぞ。震えるんだよ、親の心がよ。塾のチラシじゃ揺れねぇけど、“声”なら揺れる」

──「それっぽい」ことを、でかい声で言う。
それが、島田タクミという男だった。

その日から、ゴンドウはカンゾウに定期的に名簿を卸すようになった。

毎週金曜日、新大久保の喫茶店で封筒とUSBメモリーを渡し、現金をもらう。

「おう、今週も助かったぞ、ゴンドウ!」

「とんでもないっす、塾長」

「ちゃんと、鮮度いいやつ頼むぞ。古い名簿は“臭ぇ”からな」

そう言ってデカい声で笑う。

──タクミは、自分が“選ぶ側”であることに、酔っている男だった。

タクミと接するうちに、ゴンドウは感じるものがあった。

豪快。自己愛。単純。支配欲。
そして──若い女に、めっぽう弱い。

「さっきの現代文の質問に来た子、なかなか可愛かったろ? 来週あたり、ファミレス連れてこうかな」

「……へえ、うらやましいっすねぇ」

──本心では、内心こう思っていた。
(あんたみたいな奴に、惚れる女子高生がいるかよ……)

だが、黙って笑っていた。
それが、ゴンドウの処世術だった。

一方で──
うらやましさが、ゼロだったわけではない。

若い女にキャーキャー言われることも、名刺を出しただけでチヤホヤされることも──ゴンドウの人生には、なかった。

彼を惹きつけるのは、なぜか年上の女性ばかりだった。

保険の外交員、銀行の窓口係、地元スナックのママ──

ひと回り、ふた回り年上の女性たちに、なぜかモテる。

「ゴンちゃんって、なんか放っとけないのよねぇ〜」

──若い女に冷たくされるたび、熟女に“ホッカイロ”のように癒やされる。

タクミとは、そこが違った。

ある夜、タクミとゴンドウは、仕事の延長のような空気で歌舞伎町へと繰り出していた。

名簿の件が片付き、教材のサンプルを受け取った帰り──
「たまには付き合えよ」とタクミに誘われたのだ。

店は、雑居ビルの4階にあるスナックだった。

入口には「Club Rondo」と筆記体で書かれたくすんだネオン。
派手でもなく、かといって安くもない。

“タクミの今夜の気分”にちょうど良い、そんな店だった。

「おい、ゴンドウ、ここのポテサラ、妙にうまいぞ」

「は、はぁ……じゃあ、いただきます」

すでに三杯目の水割りをあおったタクミは、隣のキャストに「俺は東大で心理学も学んでたんだよ」と得意げに語っていた。

「この子はきっと一人っ子だろうなとかね、俺にはわかるの」

「えー、すごい〜!ほんとにわたし一人っ子〜!」

──そう言って笑う女に、タクミも豪快に笑い返す。

ゴンドウはその様子を、グラスを両手で抱えながら、じっと見ていた。

「……カリスマって、こういうやつを言うのかもな」

自分には縁のない光景だと、どこか納得していた。

帰り道、駅に向かってふたりで歩いているときのことだった。

酔ったタクミが、ふと立ち止まり、ネクタイを緩めながら、こんなことを口にした。

「……お前も、大変だな」

「え?」

「主役じゃねぇ人生ってのは、哀しいもんよ」

「…………」

ゴンドウは返事をしなかった。

何を言っても、自分の言葉はタクミには届かないだろう。

この男は、自分が主役じゃない世界には興味がないのだ。

──風が吹く。

歌舞伎町の雑踏の隙間から抜けた冷気が、首筋をなぞる。

ゴンドウのコートには、スナックの女たちがつけていた甘ったるい香水の匂いが、わずかに残っていた。

誰がつけていたものか、もう思い出せない。
だが、それがタクミという男の“生きる匂い”なのだと思った。

──背中に残ったのは、安物の香水の残り香と、そして、自分の靴音だけだった。

その夜、ゴンドウはひとりで帰り、翌朝にはまた東芝製のラップトップを背負って営業に出かけた。

俺は俺がやれることをやるだけさ──
そう心の中でつぶやきながら。

第8話へつづく