第6話からのつづき
都内某所──川沿いの倉庫跡地に建てられた灰色の6階建てビル。
その最上階にある一室。 分厚いカーテン、応接セット、クリスタルの灰皿に山積みの吸い殻──
関東学力増進機構(カンゾウ)の「塾長室」だった。
そして、そこにふんぞり返っていたのが──
「カンゾウの帝王」こと、塾長・島田タクミである。
「カンゾウは今、生徒200人。中堅予備校としては上出来よ。だろ?」
誰に語るでもなく、天井を仰ぎながらタクミは笑う。
その顔には、黒光りするオールバックと、どこか狐めいた細い目。
着ているのは、襟の立ったラガーシャツ。声がでかく、笑い声はやたらと響く。
ゴンドウが初めて彼と会ったのは、その塾長室だった。
「あんた、教材会社の……えっと?」
「ゴンドウです。ゴンドウ龍太郎と申します」
「おう、で、おたくの教材、何が売りなの?」
ゴンドウは用意していた教材見本を机に広げた。
世界史、現代文、漢文、数IIBまで。定番セットである。
だが、タクミは見向きもしなかった。
「──それより、名簿持ってる?」
その一言で、空気が変わった。
「あー、まぁ……多少は……」
「どこの学校? 公立? 私立? 中高一貫か? 女子高か?」
「えっと、今あるのは都立A高と、あと埼玉の私立──」
「そのままコピーもらえる? 封筒に入れて。ギャラは、出すから」
タクミは机の引き出しから札束の入った封筒を取り出し、トスのように放ってきた。
それを受け取るゴンドウ。
──瞬間的に、立場が決まった気がした。
「集客、どうしてるんですか?」とゴンドウが聞くと、タクミは声を上げて笑った。
「ネット? SNS? 甘ぇ甘ぇ。うちは電話よ、電話」
「いまだに電話営業なんて……」
「“いまだに”じゃねぇ、“今こそ”だよ」
タクミの目がギラリと光る。
「お前、声ってすげぇんだぞ。震えるんだよ、親の心がよ。塾のチラシじゃ揺れねぇけど、“声”なら揺れる」
──「それっぽい」ことを、でかい声で言う。
それが、島田タクミという男だった。
その日から、ゴンドウはカンゾウに定期的に名簿を卸すようになった。
毎週金曜日、新大久保の喫茶店で封筒とUSBメモリーを渡し、現金をもらう。
「おう、今週も助かったぞ、ゴンドウ!」
「とんでもないっす、塾長」
「ちゃんと、鮮度いいやつ頼むぞ。古い名簿は“臭ぇ”からな」
そう言ってデカい声で笑う。
──タクミは、自分が“選ぶ側”であることに、酔っている男だった。
タクミと接するうちに、ゴンドウは感じるものがあった。
豪快。自己愛。単純。支配欲。
そして──若い女に、めっぽう弱い。
「さっきの現代文の質問に来た子、なかなか可愛かったろ? 来週あたり、ファミレス連れてこうかな」
「……へえ、うらやましいっすねぇ」
──本心では、内心こう思っていた。
(あんたみたいな奴に、惚れる女子高生がいるかよ……)
だが、黙って笑っていた。
それが、ゴンドウの処世術だった。
一方で──
うらやましさが、ゼロだったわけではない。
若い女にキャーキャー言われることも、名刺を出しただけでチヤホヤされることも──ゴンドウの人生には、なかった。
彼を惹きつけるのは、なぜか年上の女性ばかりだった。
保険の外交員、銀行の窓口係、地元スナックのママ──
ひと回り、ふた回り年上の女性たちに、なぜかモテる。
「ゴンちゃんって、なんか放っとけないのよねぇ〜」
──若い女に冷たくされるたび、熟女に“ホッカイロ”のように癒やされる。
タクミとは、そこが違った。
ある夜、タクミとゴンドウは、仕事の延長のような空気で歌舞伎町へと繰り出していた。
名簿の件が片付き、教材のサンプルを受け取った帰り──
「たまには付き合えよ」とタクミに誘われたのだ。
店は、雑居ビルの4階にあるスナックだった。
入口には「Club Rondo」と筆記体で書かれたくすんだネオン。
派手でもなく、かといって安くもない。
“タクミの今夜の気分”にちょうど良い、そんな店だった。
「おい、ゴンドウ、ここのポテサラ、妙にうまいぞ」
「は、はぁ……じゃあ、いただきます」
すでに三杯目の水割りをあおったタクミは、隣のキャストに「俺は東大で心理学も学んでたんだよ」と得意げに語っていた。
「この子はきっと一人っ子だろうなとかね、俺にはわかるの」
「えー、すごい〜!ほんとにわたし一人っ子〜!」
──そう言って笑う女に、タクミも豪快に笑い返す。
ゴンドウはその様子を、グラスを両手で抱えながら、じっと見ていた。
「……カリスマって、こういうやつを言うのかもな」
自分には縁のない光景だと、どこか納得していた。
帰り道、駅に向かってふたりで歩いているときのことだった。
酔ったタクミが、ふと立ち止まり、ネクタイを緩めながら、こんなことを口にした。
「……お前も、大変だな」
「え?」
「主役じゃねぇ人生ってのは、哀しいもんよ」
「…………」
ゴンドウは返事をしなかった。
何を言っても、自分の言葉はタクミには届かないだろう。
この男は、自分が主役じゃない世界には興味がないのだ。
──風が吹く。
歌舞伎町の雑踏の隙間から抜けた冷気が、首筋をなぞる。
ゴンドウのコートには、スナックの女たちがつけていた甘ったるい香水の匂いが、わずかに残っていた。
誰がつけていたものか、もう思い出せない。
だが、それがタクミという男の“生きる匂い”なのだと思った。
──背中に残ったのは、安物の香水の残り香と、そして、自分の靴音だけだった。
その夜、ゴンドウはひとりで帰り、翌朝にはまた東芝製のラップトップを背負って営業に出かけた。
俺は俺がやれることをやるだけさ──
そう心の中でつぶやきながら。
第8話へつづく