第5話:徳富ノリコの肩もみ

第4話からのつづき

徳富典子(とくとみのりこ)──
かつて、生命保険業界で「伝説」とまで呼ばれた女だった。

1年目から頭角を現し、2年連続で全国1位のセールス。
生保レディの頂点と言われていたこともあった。

ゴンドウがまだ教材会社に入ったばかりの頃、飲み会でたまたま隣の席になったのが最初の出会いだった。

「あなた、地味ねぇ。笑顔も気持ち悪い。でも、声が優しいところは、ちょっと悪くないわ」

酔ったノリコが放ったその言葉を、ゴンドウは今も覚えている。

ノリコは7歳年上。見た目は派手だが、口調は落ち着いていた。

どこか「男を見る目」を持っているような、そんな女だった。

出会いから10年──

今、ノリコはイトヨビ(伊東予備校)の経理・事務として働いている。

発祥の地は静岡・伊東。
そこから少しずつ全国展開し、現在では札幌、仙台、池袋、横浜、名古屋、大阪と、拠点を広げている中堅予備校だ。

ノリコの元に出入りする生徒の情報は──
当然ながら“宝の山”だった。

「ねえノリちゃん、今度、高1の名簿……ほんのちょっとでいいんだけど、お願いできないかな?」

「ダメよぉ、そんなの本当は……」

「うん、でも……肩、凝ってるでしょ? もんであげよっか?」

「……もう、ゴンドウちゃんてば、ほんと調子いいんだから」

ゴンドウの営業スタイルは、極めて地味で、卑屈で、そして──異様にマメだった。

約束の前日には「明日、よろしくお願いします」のFAXを入れる。

名刺は3種類持ち歩く。
うち1枚は、架空の「教育マーケティング研究所」名義。

どのスナックに行っても「今日もありがとう」のチロルチョコを忘れない。

ゴンドウを知る人間は、こう言う。

「何か頼むなら、あいつ。手間はかかるけど堅実」

──信頼とは、地味な手間の積み重ねだと、彼は知っていた。

ただし、金回りが良くなると、途端に「お調子者」に変わるのがゴンドウの悪いクセだった。

ある日、ノリコと居酒屋に行ったときのこと。

「今日は、俺が全部出すよ。八海山の純米大吟醸を瓶ごといっちゃおう!」

「え〜、ほんとに? じゃ、刺身の盛り合わせもいっちゃおうかな」

上機嫌なゴンドウは、派手な紫のスーツに、金のラメ入りネクタイ。
まるで宴会芸人のような出で立ちだった。

「どう? 今日のネクタイ。エルメスだよ、え・る・め・す!」

「いいじゃない、似合ってるわよ。……ま、ちょっとだけね」

そして夜も更け──

ノリコの家のソファで、ゴンドウは彼女の肩をもんでいた。

「ううん、そこそこ。……あー、そこそこそこ」

「こう? こう? このへん?」

「うん、いい感じ。やっぱりゴンドウちゃん、力の入れ方が絶妙よね」

「でしょ? 肩もみってね、教材営業にも通じるんだよ。圧をかけすぎても、引かれるしさ」

「あはは、何それ。教材と肩もみの共通点とか、初めて聞いたわ」

──二人の笑い声が、静かな夜の中に、ポツンと灯っていた。

だが、ノリコには妻のような優しさはなかった。
彼女は、仕事でも恋愛でも、現実的な女だった。

「ゴンドウちゃん。あたしね、あなたのこと、可愛いと思ってるのよ。ほんとに」

「うん……うれしいよ、そう言ってもらえると」

「でもね、あんたがいなくなっても、あたしは平気だから。わかってるでしょ?」

「……うん、わかってるよ」

ゴンドウは、苦笑いを浮かべた。

──それでも、この関係は、悪くない。
ノリコが「味方」である限り、俺はこの世界で、なんとかやっていける。

「今日も今日とて、やるべきことをやるだけさ。誰かの役に立てればそれでいい──」
そんな独り言を呟き、苦笑いを浮かべ、今夜もゴンドウは、薄暗い裏道に消えていく。

第6話へつづく