第4話からのつづき
徳富典子(とくとみのりこ)──
かつて、生命保険業界で「伝説」とまで呼ばれた女だった。
1年目から頭角を現し、2年連続で全国1位のセールス。
生保レディの頂点と言われていたこともあった。
ゴンドウがまだ教材会社に入ったばかりの頃、飲み会でたまたま隣の席になったのが最初の出会いだった。
「あなた、地味ねぇ。笑顔も気持ち悪い。でも、声が優しいところは、ちょっと悪くないわ」
酔ったノリコが放ったその言葉を、ゴンドウは今も覚えている。
ノリコは7歳年上。見た目は派手だが、口調は落ち着いていた。
どこか「男を見る目」を持っているような、そんな女だった。
出会いから10年──
今、ノリコはイトヨビ(伊東予備校)の経理・事務として働いている。
発祥の地は静岡・伊東。
そこから少しずつ全国展開し、現在では札幌、仙台、池袋、横浜、名古屋、大阪と、拠点を広げている中堅予備校だ。
ノリコの元に出入りする生徒の情報は──
当然ながら“宝の山”だった。
「ねえノリちゃん、今度、高1の名簿……ほんのちょっとでいいんだけど、お願いできないかな?」
「ダメよぉ、そんなの本当は……」
「うん、でも……肩、凝ってるでしょ? もんであげよっか?」
「……もう、ゴンドウちゃんてば、ほんと調子いいんだから」
ゴンドウの営業スタイルは、極めて地味で、卑屈で、そして──異様にマメだった。
約束の前日には「明日、よろしくお願いします」のFAXを入れる。
名刺は3種類持ち歩く。
うち1枚は、架空の「教育マーケティング研究所」名義。
どのスナックに行っても「今日もありがとう」のチロルチョコを忘れない。
ゴンドウを知る人間は、こう言う。
「何か頼むなら、あいつ。手間はかかるけど堅実」
──信頼とは、地味な手間の積み重ねだと、彼は知っていた。
ただし、金回りが良くなると、途端に「お調子者」に変わるのがゴンドウの悪いクセだった。
ある日、ノリコと居酒屋に行ったときのこと。
「今日は、俺が全部出すよ。八海山の純米大吟醸を瓶ごといっちゃおう!」
「え〜、ほんとに? じゃ、刺身の盛り合わせもいっちゃおうかな」
上機嫌なゴンドウは、派手な紫のスーツに、金のラメ入りネクタイ。
まるで宴会芸人のような出で立ちだった。
「どう? 今日のネクタイ。エルメスだよ、え・る・め・す!」
「いいじゃない、似合ってるわよ。……ま、ちょっとだけね」
そして夜も更け──
ノリコの家のソファで、ゴンドウは彼女の肩をもんでいた。
「ううん、そこそこ。……あー、そこそこそこ」
「こう? こう? このへん?」
「うん、いい感じ。やっぱりゴンドウちゃん、力の入れ方が絶妙よね」
「でしょ? 肩もみってね、教材営業にも通じるんだよ。圧をかけすぎても、引かれるしさ」
「あはは、何それ。教材と肩もみの共通点とか、初めて聞いたわ」
──二人の笑い声が、静かな夜の中に、ポツンと灯っていた。
だが、ノリコには妻のような優しさはなかった。
彼女は、仕事でも恋愛でも、現実的な女だった。
「ゴンドウちゃん。あたしね、あなたのこと、可愛いと思ってるのよ。ほんとに」
「うん……うれしいよ、そう言ってもらえると」
「でもね、あんたがいなくなっても、あたしは平気だから。わかってるでしょ?」
「……うん、わかってるよ」
ゴンドウは、苦笑いを浮かべた。
──それでも、この関係は、悪くない。
ノリコが「味方」である限り、俺はこの世界で、なんとかやっていける。
「今日も今日とて、やるべきことをやるだけさ。誰かの役に立てればそれでいい──」
そんな独り言を呟き、苦笑いを浮かべ、今夜もゴンドウは、薄暗い裏道に消えていく。
第6話へつづく